総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 座間味村における戦災の状況(沖縄県)

座間味村における戦災の状況(沖縄県)

1.米軍の侵攻

 第二次世界大戦当時、沖縄本島への侵攻を予想した日本軍は、米軍を背後から奇襲するために慶良間の島々に約300艇のマルレ(海上特攻艇)を配備した。これに対し、米軍は沖縄本島上陸作戦の前に補給基地として慶良間諸島の制圧を開始。慶良間諸島周辺には、悪天候でも艦艇が避泊できる天然の錨地が44か所あり、水上機基地の配備にも適していたことから軍事的価値の高いエリアであったとされている。

2.米軍上陸

 昭和20(1945)年3月23日、24日と空襲が激しくなり、米軍の上陸が近いことを知った各島々の住民は、空襲による山火事や機銃掃射の中、壕への避難を開始した。3月25日、米軍は、空襲に加え軍艦からの艦砲射撃も開始した。その時の米艦艇は海峡を埋め尽くし、想像を絶するほどの数であった。

 翌日、昭和20(1945)年3月26日。猛烈な空襲と四方八方からの艦砲射撃が続く中、午前8時4分に米軍が阿嘉島に上陸し、これが沖縄戦における米軍上陸第一歩となった。同日8時25分に慶留間島、9時ちょうどに座間味島、午後1時41分に屋嘉比島に上陸し、圧倒的な戦闘力の差を以ってわずか数日で島々を占拠した。住民は山間の壕等に逃げ込み、日本軍は時々「切り込み」戦法を取ったが、米軍を退かすだけの効果はなかった。座間味島の部隊は部隊長の怪我と武器不足、そして食料に窮して、米軍上陸から2週間ばかりで組織的戦闘能力を失い、部隊を解散している。

3.避難と「集団自決」

 米軍の上陸を知った住民は次第に追い詰められ、自決を余儀なくされた。カミソリやネコイラズ、手榴弾や縄を使って、自分の命を、さらには自分の家族の命をその手で奪った。座間味島では234人、慶留間島では53人、屋嘉比島では2家族が「集団自決」で亡くなっている。

 一方、阿嘉島では、ほとんどの住民が山奥の「シジ山」に避難していた。日本軍もその近くに陣地を構え、長期戦に備えていた。日が経つにつれ、食料問題が深刻な状況に陥り、ついには、食料が無くなり住民は衰弱し、長く苦しい避難生活を続けていた。日本が無条件降伏をした日に遅れること8日後の8月23日、最後まで抵抗を続けていた阿嘉島住民20家族約80人が投降し、5ヶ月にも及ぶ阿嘉島の戦いは終わった。

4.戦後の復興

 戦災で想像を絶するほどの壊滅的な打撃を受けた座間味村の復興の第一歩は阿真で踏み出された。座間味、阿佐、阿真、屋嘉比の住居難民が合流し、阿真の民家でひしめき合った生活を送っていた。慶留間島では座間味同様、生き残った住民は保護され、焼け残った家屋に親戚同士で共同生活を送っていたが、5月7日に伊江島の住民450人、6月下旬には阿嘉の住民300人余りも収容されたため、慶留間部落は本来の人口の10倍近くもの人達が集まっていた。

 その後は米軍の指揮のもとで、復興に向け作業に従事することになった。衣料や食糧が米軍からの配給でまかなわれ、廃墟と化した座間味部落の復興を行い、農業・漁業の再開、住宅の修復等、住民たちは戦後の歴史を歩みだした。

5.次世代への継承

 座間味村は昭和20(1945)年3月26日から始まった沖縄戦において、米軍が最初に上陸した地となり、多くの尊い命が奪われた。

 村内には、当時の住民が避難した防空壕や、御霊をまつる慰霊碑等、沖縄戦の記憶を伝える戦跡が多く現存している。座間味村では、これらの保存と紹介を通し、より多くの皆さんが平和について学び、感じ、考える場となれるよう後世に伝えていく。

慰霊行事

座間味村戦没者追悼式
開催日:毎年3月26日

参考文献
『座間味村史』 座間味村役場 1989年
『戦世を語り継ぐ 座間味村平和学習ガイドブック』 座間味村教育委員会 2007年
「座間味村平和・未来プロジェクトサイト」 https://zamami-peace.net別ウィンドウで開きます
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年

情報提供:座間味村住民課 座間味村教育委員会

ページトップへ戻る