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伊是名村における戦災の状況(沖縄県)

1.戦時下の伊是名島

 本村は沖縄本島北部の海上に浮かぶ離島という地理的性格から、戦時下の本島における戦闘情報等は、村の一部、主に指導者層でのみ独占され、一般住民にはまったく知らされていなかった様である。そのため、本島への米軍上陸の報が村民公然の事実となったのは、約2ヶ月が経過した5月末頃であったといわれている。

 戦時中、村内5ケ集落を13班に分け、各班毎に警防団・国防婦人会、翼賛壮年団、在郷軍人会等の戦争協力の末端組織が整備され、村防衛隊の管轄下に置かれていた。また、伊是名国民学校においても、学校防護団が結成され、空襲時の避難訓練に加え「御真影」を安全な場所に退避する訓練も実施された。

2.当時の村民生活

 本村は戦前より水稲が盛んな米どころであるが、戦時中戦況が急迫し日本軍の沖縄移駐が開始されると、軍への食糧供出が求められるようになり、各戸収穫高に応じ県が査定した供出米が徴収されていた。ところが、昭和18(1943)年の一期米の収穫時に、県の技手及び駐在巡査により査定割合以上での供出強行がおこった。これに反発した村民は、全戸協力のもと村民大会を開催し、後日、収穫米の保有高を再計算したところ、技手と駐在巡査による不正が明らかとなり、是正される事案も発生している。これは当時の食糧不足を物語る一例であり、実際に戦時供出により保有米のほとんどを供出した一家9人の内、6人が栄養失調により死亡した例も確認され、行き過ぎた戦時協力による犠牲ともいえる。

 また、村民は毎日のように飛来するアメリカ軍機の急襲により、集落内に居住する危険から、集落後方の山中に防空壕を掘り、昼はその壕でモグラ生活を行った。夜間は敵機の来襲がほとんど無く、暗くなってから各自帰宅し、灯火管制の下、翌一日分の食事を作るなどした。食糧増産のため、蚕の餌である桑木の畑を芋畑へ置換し、家畜類は屠殺して近隣に分配し、塩漬けにして蓄えていた。特に鶏については、朝鳴きを敵機に察知される恐れがあるとして、早急に処分されたといわれている。

 一方、住民の戦争協力は食糧供出のみではなく、青壮年男子は隣村の伊江島へ交代制で赴き、飛行場建設に従事するなど、危険を伴う作業にも強制的に動員されていた。

3.戦災の状況

 昭和19(1944)年10月10日、アメリカ艦載機(グラマン)が大挙飛来し、那覇をはじめとした港湾施設や飛行場を急襲し、沖縄全域に亘って多大な戦禍を与えた。本村の上空にも飛来し、伊是名集落に所在した伊是名郵便局の無電塔を破壊し、周辺の民家や石垣にも被害を与えた。更に伊是名国民学校近くに500kg爆弾が投下されたが、不幸中の幸いにも不発であった。一方、仲田港に停泊中であった村有船伊福丸は、機銃掃射を浴びるも船体に大きな損傷は無かったが、船員一人が犠牲となっている。しかしその後、伊福丸は伊平屋村我喜屋港に停泊中の昭和20(1945)年2月12日、空襲に見舞われ撃沈されている。

 その他にも、特殊任務を帯びた特務教員や敗残兵によって、スパイ容疑をかけられた住民やアメリカ兵捕虜の虐殺も発生している。

4.戦後の伊是名村

 戦後間もない昭和21(1946)年、村長を選任し公吏を組織すると混乱した村政の回復に努め、伊是名小学校の再開及び石川高等学校伊是名分校の新設、各字幼稚園の創立がなされた。また、巡査部長派出所が設置され治安維持に寄与していたが、社会的にも落ち着きが取り戻されたことから、後年になり戦前同様の巡査駐在所が復活した。

 昭和23(1948)年4月には、教育6・3・3制度が実施され、義務教育制度により本村においても伊是名中学校が創立された。

参考文献
  • 『伊是名村誌』 中本弘芳編 1966年
  • 『伊平屋列島文化誌』 仲田清栄 1974年
  • 『虐殺の島−皇軍と臣民の末路−』 石原昌家 1978年
  • 『伊是名村史 上巻(島のあゆみ)』 伊是名村史編集委員会 1989年

情報提供:伊是名村住民福祉課
伊是名村教育委員会

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