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高松市における戦災の状況(香川県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年7月3日午後11時ごろ, 空襲警報が鳴り響き, 市民は毎日のような警報の発令に「またか」と思いながら空襲に備えた。しかし, このとき爆撃はなく, 空襲警報はやがて解除され, 市民は安心して床についた。

 ところが, 翌7月4日午前2時56分, 突然空襲が始まり, 10分ぐらい経過したときには, 高松市の中心部は火の海となっていた。それでもB29による爆撃は, 執拗に続けられ, 爆撃が終わるまで106分を要したという。

 このとき投下された爆弾は, 高性能爆弾24tと焼夷弾809t(100m2当たり約2.7kg 焼夷弾8個平均)というものすごさであった。

 被害建造物では, 一般住宅が大半を占めたが, 官公署,学校,神社,寺院,教会,銀行,会社,工場などの被害も大きかった。学校は市内の30校のうち19校が被災, 神社は50社のうち27社, 寺院は79か寺のうち63か寺, 教会は26か所のうち16か所が焼失している。


<松浦 薫さん撮影>

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2.市民生活の状況

戦争が長引くにつれて,食料品や日用品が不足し,それらを自由に買うことができなくなり,生活は苦しくなっていった。男子の多くは戦場へ動員され,中学生や女学生までも工場で働かされた。戦争に協力しない行動はきびしく取り締まられ,毎日の生活は戦争に勝つためとされ,くらしへの不満をもらすこともできなくなった。

2-1.町内会・隣組

 昭和12(1937)年7月に開始された日中全面戦争は,日本の総力を結集させての戦争となった。その象徴的法体制が昭和13(1938)年4月成立の国家総動員法であった。戦争への人的・物的資源の動員と運用・統制を下部で支えたのが町内会・部落会・隣組の組織であった。

 昭和15(1940)年には全国的に町内会が結成され,高松市の場合は11月にその整備を終了した。いわゆる銃後の戦争協力に決定的な役割を果たした組織である。

組織運営の図式(高松市の場合)
  • 市常会 (町会長・各種団体代表で構成,市役所庶務課担当)
  • 町内会連合会 (町内会相互連絡)
  • 町内会 (町内会常会,隣組長・各種団体代表で構成)
  • 隣組 (隣組常会,隣組員各家1人参加)
  • 各家庭

 市常会は、市長が会長で,政府等が決定したことを市が招集のこの常会で示達される最重要の連絡機関であった。毎月1回定期日に開催。

町内会・隣組の活動(高松市の場合)

 政府や軍部からの情報伝達をはじめとして,出征兵士の歓送・戦勝祈願の実施・防空演習への参加・防諜活動・住民登録(町籍簿によって毎月移動を報告),国債の割当消化・貯蓄の奨励・金属類の回収・勤労動員の割り当て・日常生活物資の配給等,実に広範域にわたっている。この中から二例だけ具体的に紹介する。

 貯蓄奨励の場合,昭和19(1944)年度の国民貯蓄目標額は高松市は5,980万円という膨大な額が設定された。戦争のあまりの長期化で,この年度は市民生活の窮乏もピークになっていた時期である。しかも前年度の約1.6倍の目標額であった。しかし,昭和19(1944)年度の目標額も高松市民はほぼ達成したとされている。

 勤労奉仕では,高松市で町内会を通じて勤労奉仕隊が結成されたのは昭和18(1943)年で,以後昭和20(1945)年まで御殿山貯水池造成(高松市の上水道の水源,出動実日数 218日とされる),春秋の農繁期作業(1943年秋の麦刈りに市民10,469人の出動),陸軍林飛行場建設(1944年3〜4月,16,632人,1944年5〜7月 7,780人の出動)等が代表的なものである。

 市民の動員過剰負担を補うものとして,香川県下でも国民学校高学年から大学生までの学徒勤労動員が実施されている。

2-2.防空演習

 香川県では,防空演習の義務づけがなされる防空法の成立以前の昭和10(1935)年5月に初めて防空演習がなされた。日中戦争が本格化した昭和12(1937)年の10月には防空法が施行され,道府県などは防空計画を作成し,それに基づく訓練の実施が要請された。

 昭和12(1937)年10月香川県警察部警務課内に防空係が設置され,高松市でも11月高松市防空委員会が組織された。

 空襲による惨禍に備え,その被害をできるだけ軽減するために,各地に警防団を結成し,消火訓練の実施や灯火管制の徹底を訴えた。昭和13(1938)年度中には各地で防空訓練を実施するとともに,家庭防空が可能であるという前提で,防火用水槽・バケツ・火叩き・防火服などの整備を図ることに重点がおかれた。

 昭和16(1941)年のアジア・太平洋戦争突入後は,各家庭に「時局防空必携」などが配られ,防空演習がますます頻繁に実施されていった。

2-3.学校教育・学童集団疎開・学徒動員

 昭和16(1941)年,小学校は国民学校と呼ばれるようになり,その頃の中等学校以上では軍事教練が授業の中に入り,工場などで働く学徒動員が行われるようになった。

 昭和19(1944)年,大都市の空襲を避けるために学童疎開が始まった。

 高松市でも,大阪市港区三先国民学校の3年生から6年生までの学童約400人を受け入れ,市内のお寺などに泊まりこむなど,多くの子どもたちが,親と離れてつらい生活を送った。

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3.空襲等の状況

昭和20(1945)年7月3日から4日未明にかけて,米軍のB29爆撃機は,姫路・徳島・高知・高松の順に攻撃を加えた。B29は,西の西方寺の方から高松の上空へ侵入してきた。ドーンと地をゆるがす爆発音,ザアーという恐ろしい落下音と火の雨,どこもかも火の海。人びとは,家族と別れ別れになりながらも,必死で逃げるのがせいいっぱいだった。

 昭和20(1945)年5月下旬から,米軍は日本の地方中小都市に標的を拡大して,空襲を繰り返していった。すでに,日本の空の防備の弱体を知り尽くしていた米軍は,6月下旬からは空襲の予告ビラすら投下するようになった。

 高松市には軍事機関はいくつかあったが,大きな軍事施設などはなく,その点からまさか空襲はあるまいとする雰囲気が市民の間にあったとされる。ところが,6月29日,対岸の岡山市が空襲されたことと,6月末に高松の空襲の予告ビラが米軍により投下されたことによるものか,一部の人たちの間に,高松の空襲も必至であろうとの危惧や噂が広まっていった。

 7月3日午後11時,高松市に空襲警報が発令された。しばらくしてB29爆撃機の編隊が爆音を轟かせて高松市上空に飛来したが,通過するだけであった。翌4日午前0時過ぎには空襲警報も解除となり,市民は安堵の胸をなでおろした。この日の高松は最高気温32度を超す暑い日で,夜になってもむし暑い寝苦しい状態であったが,ようやく市民も深い眠りにつこうとしていた。

 ところが,突然何の予告もなく,午前2時56分からB29の大編隊による焼夷弾攻撃が開始されたのである。第21爆撃隊の第58航空団に所属するB29部隊128機がテニアン島を前日に出発し,116機が高松市に襲いかかってきたのである。市民の退路を断つ形で,初めは高松市街を円形で攻撃し,後は主に東西方向に波状攻撃を繰り返し,それは実に午前4時42分まで及んだ。

3-1.高松空襲の被害状況

  • 爆撃機数/B29爆撃機116機(うち案内機12機)
  • 空襲時間/7月4 日午前2時56分〜4時42分(106分間)
  • 投下爆弾/高性能爆弾24t(97個)・焼夷弾809t(9万8,062個)
  • 3,000mから3,380mの上空より投下
  • 被害面積/3.85km2 (市街地の約80%)
  • 被害建築物/18,913戸(うち住宅16,418戸)
    • 全焼18,505戸(うち住宅16,108戸)
    • 半焼408戸(うち住宅310戸)
  • 罹災者/86,400人
  • 死者/1,359人
  • 負傷者/1,034人
  • 行方不明者/186人

3-2.高松市を攻撃の目標として選んだ理由

  • 本州につながる鉄道連絡船の終点,四国の主要鉄道・道路網の集中点であり備讃瀬戸の支配的位置を占める。
  • 香川県の県都である。
  • 軍需産業の重要地である。倉敷飛行機工場,槙田鉄工所,化学工場,爆薬製造設備,石油精製設備を有する。
  • 人口密度が高い。1940(昭和15)年,面積53.02km2,人口 111,207人
  • 対空砲火装置を持っていない。

(第21爆撃隊本部作戦任務報告書より)

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4.復興のあゆみ

空襲により市街地の80%を焼失した高松市は,昭和21(1946)年,復興に着手した。中央通りの中央植樹帯に植えられたクスノキは,今では高松市のシンボルとなっている。戦災を受けた市立学校の復旧にも着手するとともに,新制中学校の校舎も,順次整備した。

 また,工場も復興が図られ,銀行や会社などの本社・支店もでき,四国の中心都市としての基盤を築いた。

 高松市の場合は,昭和20(1945)年7月4日の空襲で,市街地の80%を焼失。

 昭和20(1945)年10月26日に,市長の諮問機関として,高松市戦災委員会が設置された。市長をはじめ,市議会関係,県選出の代議士,一部の県会議員,県商工経済会代表,学校長,町内会連合会長等が委員会を構成した。

 昭和21(1946)年3月には市の機構に復興部を新設。4月には国の戦災復興院に高松市としての復興計画を提出した。

 戦災地域の復興・整備は焼け跡の清掃作業から実施された。主に既設街路の清掃がなされ,昭和20(1945)年度中に,市街地の約1万m2の清掃が実行された。並行して中央通りの拡張整備が着手され,これは高松市復興の歩みのシンボルとなった。

 さらに,焼け跡の金属回収も本格的な復興事業に先行して展開された。工場等の機械設備の除去,個人所属の金属除去を含めて,昭和21(1946)年度では291トン回収している。

 土地区画整理事業も昭和21(1946)年には実施され,復興への歩みは本格化した。戦災地域の公共用地(緑地や広場など)や幹線街路の整地がなされ,昭和23(1948)年度までに清掃・整理は42万9千m2に及んだ。

 高松市の復興計画の中から二つの例を挙げて,実施状況を見ておきたい。

4-1.住宅復興

 空襲による罹災住宅は16,418戸とされ,昭和19(1944)年の住宅数の実に61%近くに及んだ。この復興は緊急を要した。

 昭和20(1945)年中に復興家屋として,厚生省からの割り当て許可は3,200戸であった。しかし,資材はなく,配給に全面依存を余儀なくされ,しかも,戦後のインフレに直撃し,工賃や資材価格が高騰化。残念ながら十分な実施は不可能であった。

  • 市営住宅 昭和20(1945)年度 100戸
  • 昭和21(1946)年度 100戸
  • 昭和22(1947)年度 233戸
  • 昭和23(1948)年度 150戸

 その他,高松市として,共同宿泊所や共同住宅を各一棟建設した。

4-2.墓地計画

 高松市内における墓地は,市内に点在する各寺院に付属するものが大半であった。唯一,例外的存在として,峰山山麓の姥が池共同墓地があった。

 墓地所持の寺院数41か寺 墓碑数 19,185基

 これらの寺院の大半は戦前から,建築密集地の中にあった。

 戦後,土地区画整理事業を契機として,高松市は区域内の墓碑の全面的移転を計画し,ただちに仏教会の代表等と協議。

 移転予定地として,姥が池墓地(高松市中野町,現在は宮脇町に町名変更),紫雲墓地(宮脇町),摺鉢谷墓地(西浜新町,現在は宮脇町に町名変更)の各墓地に決定。昭和22(1947)年8月〜昭和31(1956)年4月までに41か寺 19,185基の移転を完了した。
参考文献:『高松市空襲戦災誌』(昭和58年3月31日発行、編集:高松空襲戦災誌編集室、発行所:高松市役所)

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5.次世代への継承

時の経過とともに高松空襲などの戦争体験の風化が進み,貴重な遺品などの資料も散逸する中で,市民の体験に基づき,戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えるとともに,平和を願う市民の心を永久に継承していくべきであるとの気運が高まった。平成2(1990)年3月,15万6,818人の市民による署名の請願が高松市議会へ提出され,全会派一致で採択された。そして市民と行政が一体となり,貴重な資料の寄贈を受け,高松空襲後50年という大きな節目の年,高松市市民文化センター内に「平和記念室」を設置した。

5-1.慰霊行事等の状況

 昭和33(1958)年,高松市戦災犠牲者遺族会(現・日本戦災遺族会香川県支部)の手によって高松市戦災犠牲者慰霊堂が高松市中野町に建立され,以後,毎年7月3日(昭和39年までは7月4日)に慰霊祭が開催されている。

 また,高松市主催の戦争犠牲者追悼式は昭和27(1952)年に第1回を開催,昭和34(1959)年以降,毎年開催している。

5-2.「高松市民のねがい」の制定と記念碑の建立

 「高松市民のねがい」は,高松市の市制施行90周年という節目の年をきっかけに"平和で豊かな明るく住みよい高松"をつくろうと,市民総ぐるみのまちづくり運動の共同目標・合い言葉として,昭和55(1980)年9月25日に制定された。まず,高松市連合自治会連絡協議会から提唱され,全世帯へのアンケートを始め,各種市民団体の意見などをもとにまとめられ,市議会定例会での議決を経て誕生した。

 この「高松市民のねがい」を全市民の貴重な財産として大切に守り育てるため,市役所玄関前,市民文化センター,峰山公園入口の3か所に記念碑が設置されている。

  • 自然を愛し 清潔で美しいまちづくり
  • 人の立場を大切に 迷惑をかけないまちづくり
  • 家庭を明るく 青少年をのばすまちづくり
  • 健康なからだと 心にうるおいのあるまちづくり
  • 働く汗を尊び 力をあわせ 平和で豊かなまちづくり

<平和の群像"あけぼの">
中央公園高松市中央公園の整備事業の一環で設置されたもので,元東京芸術大学教授菊池一雄氏により制作された。銅像の名は市民の投票により,「あけぼの」と呼ばれるようになった。
右側の女性はオリーブを,左側の女性はみかんを持ち,平和で明るい豊かな郷土高松を象徴している。これは平和記念室のシンボルイメージとされている。

<平和の群像"あけぼの"ひな形 市役所玄関前>

<石碑 市民文化センター前>
この石碑は,長方形と三角形の二つの石でできており,長方形の石は高松市民のねがいの一節の「瀬戸のさざ波呼ぶ屋島」を表し,後方の三角形の石は未来への発展を象徴している。

<翔(はばたき) 峰山公園入口>
この像は,高松市民のねがいが求めるすべてを表すため,未来にはばたく2羽の鳩と地球をモチーフにして制作したもので,平和のシンボルの鳩が,県木のオリーブをくわえている。

5-3.平和記念室事業

 平成7(1995)年7月4日,市民文化センターに開設された平和記念室では,常設展のほかいろいろなイベントを実施し,平和の啓発を行っている。

  • 憲法記念平和映画祭・平和祈念親子映画会などの映画会
  • 高松市戦争遺品展,高松空襲写真展,平和記念室収蔵品巡回展
  • 平和を語るつどい(講演会)
  • 平和記念室だよりの発行
  • 文化センター学習での平和学習・校外学習の受入れ
  • パネル・ビデオ・実物資料などの貸出し


<高松市戦争遺品展>
高松市が平成3(1991)年から高松市役所1階市民ホールにおいて毎年開催してい る。運営には高松市平和を願う市民団体協議会の協力を得ている。

平成8年度 高松空襲,戦争中の人々のくらし,戦争と人間
平成9年度 高松空襲,戦争中の人々のくらし,戦争と人間
平成10年度 家庭・社会,教育・文化,軍事
平成11年度 悪夢の高松空襲,大阪・三先小学校からの学童疎開児童の運命,奇跡的に返還された「出征国旗」
平成12年度 悪夢の高松空襲,兵士たちの運命,最近入手したもの
平成13年度 悲惨な高松空襲,お金と国債・軍票,最近寄贈されたもの
平成14年度 ごく最近入手の高松空襲被災写真,空襲被災品等,高松空襲明細地図による空襲直前の住宅の復元,最近寄贈されたもの
平成15年度 最近入手の高松空襲被災写真,陸軍林飛行場をめぐって,最近寄贈されたもの
平成16年度 高松空襲被災写真,旧ソ連への抑留と香川との関係,最近寄贈されたもの
平成17年度 戦争中の人々の暮らし,高松空襲被災写真,最近寄贈されたもの

<平和を語るつどい>
平成7(1995)年度から毎年講演形式で開催してきたが,平成14(2002)年度・平成16(2004)年度は,劇団マグダレーナの協力により(脚本から公演まで),演劇公演を実施した。
(作・演出 大西 恵)

<平成14(2002)年度 『防空壕』7.4 高松空襲>
平成16(2004)年度 SANUKI特攻隊-陸軍高松飛行場秘話-

文化センター学習での平和学習

 高松市では,市内の小学校5年生,中学校1年生を対象に,市民文化センターの諸施設を活用し,各学校の主体性を生かして学習する「文化センター学習」を実施しており,平和記念室の展示を利用して平和学習を行っている。

 小学校5年生では,展示コーナー(「出征の朝」・「高松空襲と焦土の町」・「再会の日」など)を利用し,祖父母の子どものころのできごとをビデオや映画教材を使って身近にとらえ,学習を深めている。

 中学校1年生では,小学校6年生での歴史学習を思いおこしながら,展示品や説明板を中心に,選択した学習シート(「高松空襲について」・「配給制について」・「戦争中の人々の生活について」など5種類)をもとに戦争の悲惨さを知り,平和の大切さについて考えていくきっかけをつくっている。

「高松空襲戦災誌」

 高松市が市制施行90周年記念事業のひとつとして,昭和54(1979)年5月,市立図書館内に編集室を設けて編集・執筆を開始し,昭和58(1983)年3月31日に発刊した。B5版785ページ。

「高松空襲写真集」

 平和記念室開設5周年を記念して,平成12(2000)年7月4日発刊,高松空襲前後の写真を中心とした写真集。市民文化センター平和記念室編集。A4版27ページ。

平和記念室開設10周年を記念して,平成17(2005)年7月4日発刊。市民からの寄贈写真を主に掲載した内容。市民文化センター平和記念室編集。A4版42ページ。

「親子で語る高松平和ガイドブック」

 平成10(1998)年7月4日に高松市平和を願う市民団体協議会編集発行。

 協議会発足3周年を記念し,未来の平和を子どもたちに託すため,これまで収集した資料の解説や戦争遺跡の調査の成果などをまとめたもの。A4版74ページ。

「高松市民による戦争体験記 平和の世紀を願って」

 平成13(2001)年7月4日に高松市平和を願う市民団体協議会編集発行。

 協議会発足5周年を記念し企画したもので,高松空襲を始めとする戦争の惨禍を永く語り継ぐ大切な資料として活用されることを期待して,85名の市民からの貴重な体験談をもとに作成されたもの。B5版323ページ。

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