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高知市における戦災の状況(高知県)

1.空襲等の概況

 高知市が初めて空襲を受けたのは昭和20(1945)年1月19日の夜、B29が神田地区の吉野に爆弾を投下し、3月4日には土佐湾に侵入投爆したと伝えられ、同7日午前1時に桟橋通りに爆弾6個を投下して若干の被害を生じた。3月19日にはグラマン数十機が侵入、仁井田から長岡郡日章村(現南国市)の海軍航空隊を攻撃している。5月24、25両日にわたって首都東京に徹底的空襲を加えた。

 アメリカ空軍は、次第に地方都市爆撃を強化、高知市も6月になって1日、7日、15日、19日、22日、26日と6回にわたって来襲を受け、そのたびに被害を生じたが、22日には市の上空でB29編隊のうち1機を地上砲火で撃墜することができた。6月26日来襲したB29 1機は、報復的に市内東部に大型爆弾を投下し、2回目には市上空を旋回して投下した爆弾は浦戸湾に落ちたので被害はなかった。7月4日早暁の空襲は最も大規模なもので、単機または2機、3機による波状攻撃で総数50機ないし80機と数えられ、焼夷弾は雨の如く、市街地の大部分は焦土と化した。市の上空で接触したB29両機が空中分解して落下したほどで、それによっても空襲の激しさが推察されるだろう。同24日午前B29 1機が来襲11トン爆弾3個を投下したが、これが高知市が受けた最後の空襲であった。
(高知市戦災復興史より抜粋)

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2.市民生活の状況

 生活のための絶対条件となる食糧増産と確保は最も重視され、応召や徴用によって人手不足となった農村の労働力を補うために学徒隊の応援も実施された。食糧増産の目的に沿うものとして、昭和18年(1843)6月には、高知市でも市内の空閑地は甘藷や南瓜、野菜類栽培に利用され、高知公園の一部も開墾された。配給食糧の不足を補うためである。

 高知新聞は「戦時衣生活の簡素徹底化」と題して、情報局発表についてその主旨に同調し、県民や市民にその徹底化を訴えたが、政府の衣服に関する規制はさらに強化され、8月10日商工省は省令をもって反物の長さを制し、長袖の和服やダブル背広服など非必需品600余種の製作、生産を禁止した。非軍需品として一般市民のための衣料生産は制限され、禁止されたのである。

 戦況が不利に傾き、敵の都市空襲が激しくなると、都市住民の強制疎開や家屋疎開がしきりに行われたが、これと同時に衣料疎開も勧奨された。

 戦況悪化にともない、敵機による内地空襲の必然性が予想された。昭和19(1944)年1月26日、政府は東京と名古屋に最初の疎開命令を発し、大阪や神戸、横浜等の大都市に次々にこれを実施したが、特に小学校の学童集団疎開に力を入れた。地方では、このような疎開者のために受入れ体制を整えることになり、高知県では県内市町村に通牒を発した。

 高知市の場合、中央都市のような強制疎開は見られなかったが、市民のうちには不安と恐怖が次第に濃くなり、一部市民のうちには、さらに安全地帯に逃避しようとする動きが見えた。
(高知市史―中巻―より抜粋)

 高知市当局は、県当局と協力して罹災者1人に1升の米とビール、酒を配給して市民を激励し、米穀手帳を失ったものには所属町内会長の罹災証明書によって所定の配給量を確保させ、所縁あるものは努めて郡部へ疎開させた。疎開するものには市長、または警察署長から罹災証明書を交付し、国鉄と連絡して無賃乗車の便宜を図った。高知郵便局は罹災者のために貯金や保険金の非常払い、保険年金の貸付をもって救済を図り、各保険会社は戦災保険金の即時払いを行い、政府は県を通じて早急に戦時災害保護法による救護措置をとった。すなわち住宅救護金1千円、家財給与金500円、遺族救護金として死亡者一人に500円が支給された。空襲による死者の遺骸は引取人のあるまで大原町公設運動場の北側空地に仮埋葬して県市、戦災援護会、高知仏教連合会の協力で供養祭を執行した。住居を失った罹災者で郡部疎開の縁故をもたぬものは学校や社寺、教会等に収容し、また焼け残りの家に同居するもの、壕舎を急造してそこに生活するものもあった。
(高知市戦災復興史より抜粋)

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3.空襲等の状況

『高知市戦災復興史』より

  • 昭和20(1945)年1月19日:午後7時40分、B29神田吉野の田に100キロ爆弾21個投下。軽傷1名、重傷3名、建物半壊3戸
  • 昭和20(1945)年3月7日:午前1時、B29潮江地区の桟橋通りに100キロ爆弾6個投下。死亡1名、重傷3名、建物全壊5戸、半壊25戸
  • 昭和20(1945)年6月1日:午前10時19分、B29栄田町、昭和町、愛宕町、愛宕山等に4ポンドエレクトロン油脂焼夷弾約2000個投下。死亡2名、重傷1名、軽傷6名、建物全焼壊3戸、半焼壊3戸、小破10戸
  • 昭和20(1945)年6月7日:午前11時33分、B29北本町、小川町、升形、永国寺町、北門筋に100ポンド油脂焼夷弾90個を投下。死亡1名、重傷3名、軽傷16名、建物全焼壊45戸、半焼壊24戸、罹災者169名
  • 昭和20(1945)年6月19日:午前9時16分、B29九反田、菜園場町、浦戸町に4〜6ポンドエレクトロン焼夷弾投下。死亡1名、重傷3名、軽傷17名、建物全焼壊14戸、半焼壊6戸、小破3戸
  • 昭和20(1945)年6月26日:午前9時19分、B29常盤町に1トン爆弾3個投下。死亡6名、重傷7名、軽傷35名、建物全壊27戸、半壊110戸、小破111戸、罹災者728名
  • 昭和20(1945)年7月4日:午前2時、B29編隊50〜80機潮江地区、小高坂方面、市街中心部に油脂焼夷弾大量投下。罹災面積4,186,446平方m、罹災戸数11,912戸、罹災人口40,737名、被害人員712名(内訳死亡401名、重傷95名、軽傷194名、不明22名)、被害建築11,912名(内訳全焼壊11,804戸、半焼壊108戸)
  • 昭和20(1945)年7月24日:午前11時35分、B29山内家本邸目指し来襲、鷹匠町及び唐人町に1トン爆弾3個投下。死亡5名、重傷5名、軽傷10名、全壊26戸、半壊106戸、罹災者700名

注)高知市では新たに「高知空襲犠牲者名簿」作成のため、平成13(2001)年10月から14(2002)年12月末まで、県内外に広く呼びかけ名簿登載の申請を受け付けてきた。
この結果と「高知空襲と戦災を記録する会」が長年独自に調査された犠牲者名簿との照合作業を行い、平成17年12月現在で姓名不詳の人も含み、438人の高知空襲犠牲者が判明している。

 

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4.復興のあゆみ

 度重なる空襲で生活の基盤を失った市民にとって、戦後の食糧難やインフレ下の生活難は深刻であった。戦災によって「4万2000人が市外へ転出したとみられるが、戦後占領軍の進駐が予想外に平穏に行われた頃から、帰住する者が日を追って増加し、昭和21(1946)年初めには被災者のうち3万2000余が高知市に帰ってきていた(「稿本高知市史・現代編」)ため住宅難も深刻であった。

 こうした困難な状況の中での戦後復興は、すでに大正年間から始まっていた都市計画の実績を基礎に、敏速に復興計画が立案され事業に着手した。昭和21(1946)年2月25日には、街路計画及び土地区画整理区域案が、全国120の戦災都市にさきがけ、復興院承認第1号として決定をみ、同年7月1日から6日間にわたり「高知市復興祭」が開催され、復興事業の起工式を行った。計画は、復興が単なる再建であってはならず、近代都市としての能率的な街路網、防災安全のための緑地帯や排水施設、健康で快適な生活のための小公園や土地利用計画などに加えて、美観への配慮もなければならないとし、また県都として、政治、経済、産業、文化、交通の中心地にふさわしい公共施設を備え、将来の発展、人口増加を見越した新都市建設計画の一環として立案されたものであった。しかし、緑道防火帯、はりまや橋で交差する36m道路など、先見性のある計画として現在の本市の発展につながるものではあったが、当時の深刻な市民生活の中で市民の理解を得ることは困難を極め、関係者の苦労は並大抵ではなかった。

 加えて、復興計画が動き出そうとした矢先、昭和21年(1946)12月21日未明南海地震に見舞われ、もともとかなりの広さのゼロメートル地帯があった上に、1.2メートルの地盤沈下が起こり、さらに堤防の決壊によって下知から潮江にかけて広範な市域が水没するなど、甚大な被害を受けたことは戦災復興作業を一層困難にし、長期化させることとなった。さらに、台風常襲県という宿命から幾多の台風災害を受け、何よりもまず災害対策を充実しなければならないという重い課題を背負いながらも、着々と復興を進めてきた。

 戦災復興事業は、このように多くの困難を克服し昭和33(1958)年にほぼ終了した。本市では、これを契機として昭和33(1958)年4月新市庁舎を会場の一つとして、「南国高知総合大博覧会」を開催し、戦災から復興し躍進する高知市を内外に披露した。

 その後の高知市は、戦災復興事業によって都市基盤が整備された中心市街地を核として発展を続け、33万都市に成長した。さらに平成10年4月には中核市に移行し、高知県の政治・経済・文化の中心地としてにぎわいを見せている。

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5.次世代への継承

 昭和34(1959)年、市の中心部にある鷹匠町に高知市出身戦没者忠霊塔が建立され、毎年3月に合同慰霊祭が催されている。

 また、昭和37(1962)年には「平和都市宣言」、昭和59(1984)年には「非核平和都市宣言決議」を行うとともに、市制100周年を迎えた平成元(1989)年には8月6日を「高知市平和の日」と定め、毎年8月6日から15日まで「高知市平和の日」記念事業を、市民とのパートナーシップによる実行委員会形式で開催している。

 さらに、平成16(2004)年7月4日には「高知空襲犠牲者名簿」を納め犠牲者を追悼するとともに、未来に向け平和思想を継承する施設として、「高知市平和祈念の碑」を設置した。この「碑」を活用してで平成17(2005)年度から、「高知大空襲の日」である毎年7月4日に、「高知市平和祈念式」を開催している。


<平和記念碑>

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