総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 新潟市における戦災の状況(新潟県)

新潟市における戦災の状況(新潟県)

1.空襲等の概況

 新潟市は、信濃川河口を港とする日本海側屈指の港湾都市であった。新潟港と北朝鮮とを結ぶ日本海航路は、東京と「満州」の首都を結ぶ最短路であった。戦争末期には、太平洋側の航路が保てなくなり、内地への物資受け入れ港として、新潟港の重要性が急激に高まった。

 新潟市が受けた空襲は、新潟港の封鎖を目的とした、アメリカ軍の機雷投下が主であった。B29爆撃機による機雷投下は、昭和20(1945)年5月14日から8月1日までの間、12回であるが、裏付けがとれないものが2回含まれる。機雷投下以外では、艦載機による銃爆撃が20(1945)年7月17日と8月10日の2回であった。また、アメリカは、7月25日に新潟市を原子爆弾投下目標の一つに定めたが、新潟市への投下は実行されず、終戦を迎えた。


<戦災に関わる主な施設の位置>地理調査所5万分の1地形図「新潟」(昭和28(1953)年応急修正)から

ページトップへ戻る

2.市民生活の状況

2-1.動員

 多くの市民、近隣町村の人が、港湾荷役や軍需工場に動員された。また、朝鮮・中国で連行されて新潟へ配属された人、新潟に収容された欧米人俘虜(ふりょ)も、港湾荷役などに従事させられた。

 昭和20(1945)年4月以降、軍による港湾荷役のため3000〜4000人の船舶工兵が駐留し、学校や寺院が宿舎になった。市販の地図は、鉄道の引込み線や軍需工場が白抜きで印刷された。

2-2.緊急強制疎開

 焼夷弾の空襲に備え、昭和20(1945)年5月に第1次、6月に第2次の建物疎開が実施された。8月1日夜、新潟市から約60キロメートル南の長岡市が、焼夷弾の空襲を受けた。南の空が赤くなった。第3次建物疎開が始まった。6日、広島市へ「新型爆弾」が投下された。次の投下は新潟といううわさが広がった。

 県は、10日に「一般新潟市民」の緊急疎開など4措置を決定し、11日に町内会を通じて知事布告を配布した。布告には、「新型爆弾ハ我国未被害都市トシテ僅ニ残ッタ重要都市新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大」などと記された。

 市民の疎開は、知事布告が配布される前の、10日夕刻から始まった。近郷に通じる道路は、荷物を担ぐ人や、荷物を積んだリヤカーを引く人で埋まった。12日、新潟市内は人気がなくなった。13日の墓参りは閑散とした。住職も多くが疎開した。


<写真:「知事布告」>

ページトップへ戻る

3.空襲等の状況

3-1.機雷投下

 12回の機雷投下は、すべて深夜で、零時過ぎであった。5月27日、8月1日の機雷投下の実態は不明。他の10回はアメリカ軍資料で確認された。1回の飛来機数は2〜12機、10回計で66機。投下機雷数は43〜144個、10回計で781個。投下は、信濃川を横断する方位で、港内から港外にかけて、スライス状。撃墜は、7月20日に高射砲が命中した1機で、乗員11人のうち4人が死亡、パラシュートで脱出した7人が捕えられた。

 機雷投下後は、一応の掃海作業完了後、航行再開が繰り返された。触雷は、機雷投下初日から発生し、8月15日までに触雷した船は、判明している数で36隻。漁船や艀も触雷した。沈没・座礁した船は航路の障害になった。7月19日に浚渫船「大黒丸」が触雷・沈没し、港の水深が維持できなくなった。新潟港の年間輸移入量は、昭和19(1944)年の約235万トンが、20(1945)年には約114万トンになった。

 触雷による死亡事件は、判明している数で、戦時中は6月4日から8月2日の間に9件、死者83人。このうち、7月2日に信濃川の港内で起きた「鉄工丸事件」は、多くの市民に知られている。「鉄工丸」は新潟鉄工所の船で、信濃川左岸の入船(いりふね)工場と右岸の山ノ下工場の間を、通勤用の艀(はしけ)を引いて運行していた。午後5時5分、仕事を終えた所員や勤労動員の生徒ら、70人ほどが乗る艀が触雷・沈没した。新潟第一工業学校・新潟第二工業学校・相川(あいかわ)中学校の生徒12人と、鉄工所関係者16人の計28人が死亡し、後日さらに2人が死亡した。

 終戦後は、昭和47(1972)年までに8隻が触雷した。このうち、死亡事件は3件、死者6人。昭和47年の触雷は、河床の下に埋没していた機雷に、浚渫船が浚渫作業によって触雷した。

表:「昭和20(1945)年終戦以前の新潟市へのアメリカ軍機の軍事行為」
月日 県内滞空時間 機数 内容(投下機雷数)
4.22 1 航空写真撮影
5.14 0:20〜1:15 4 機雷投下(43)
5.25 0:30〜2:30 4 機雷投下(63)
5.25 8:00〜不明 1 航空写真撮影
5.27 0:30〜1:40 約10 機雷投下
6.14 0:40〜1:30 12 機雷投下(144)
6.20 0:10〜3:00 8 機雷投下(96)
6.24 0:10〜1:25 9 機雷投下(108)
6.28 0:30〜1:37 7 機雷投下(84)
7.10 0:20〜1:17 9 機雷投下(87)
7.16 0:07〜不明 2 機雷投下(59)
7.17 10:30〜11:30 注)約10 銃爆撃
7.20 0:45〜不明 5 機雷投下(45)
7.28 0:00〜不明 6 機雷投下(52)
8.1 2 機雷投下
8.4 12:12〜13:10 1 ビラ散布
8.10 11:45〜不明 注)16 銃爆撃
8.15 6:50〜不明 1 ビラ散布

注):は艦載機、その外はB29

(『新潟歴史双書2 戦場としての新潟』(一部改変)から)


地図「新潟港の主な触雷地点」

表:「新潟港内外の触雷による死亡者数」
触雷年月日 船名 死亡者数
昭和20.6.4 貴船丸 13
20.6.7 祐昭丸 3
20.7.1 第2天祐丸 3
20.7.2 新潟鉄工所艀 28
20.7.4 丸五丸 3
20.7.12 興順丸 5
20.7.15 第6地油丸 2
20.7.19 大黒丸 7
20.8.2 山東丸 19
20.9.16 松栄丸 1
22.9.22 万代丸 3
47.5.26 海麟丸 2
89

(『新潟歴史双書2 戦場としての新潟』(一部改変)から)

3-2.艦載機の空襲

 1回目の空襲は、7月17日、午前10時30分過ぎ。機数は十数機、機種はF6FヘルキャットとF4Uコルセア。新潟市郊外の新潟飛行場が攻撃された。機銃掃射・ロケット弾・小型爆弾で、大格納庫、整備教育用の輸送機3機などが破壊された。死亡者はなかった。

 事前の空襲警報はなく、警報が発令されてからも、市中心部では買物行列が崩れなかったほど、市民は白昼の空襲に対し無防備だった。

 2回目の空襲は、8月10日、午前11時45分過ぎから15分間程度。機数16機、機種F6Fヘルキャット。攻撃目標は新潟飛行場の石油タンクであったが、船舶や工場・民家も機銃掃射・ロケット弾で攻撃された。空襲による死者は、判明している数で47人、うち43人は船舶攻撃による死亡。撃墜は、陸軍軍用船「宇品(うじな)丸」との交戦による1機で、パイロット1人が死亡した。

 兵士16人、船員3人が死亡した「宇品丸」は、触雷して港内の信濃川左岸浅瀬に乗り上げていた。高射砲や機関砲を装備していたため、座礁後も船員約50人・兵士約100人が乗り込んでいた。死亡は艦載機との交戦によるものであった。

 乗客14人、船員1人が死亡した佐渡汽船「おけさ丸」は、信濃川左岸の発着場に接岸するため、微速で航行している時に攻撃された。後部甲板を中心に機銃掃射を受け、客室で多くが死亡した。

表:「昭和20年8月10日の銃爆撃による死亡者数」
被災場所 死亡者数 内訳
港内 おけさ丸 15 乗客14・船員1
宇品丸 19 船員3・兵士16
港外 第7万栄丸 2 船員2
よりひめ丸 2 船員1・兵士1
第7星丸 3 船員3
第3新潟丸 1 船員1
新潟港湾警備隊附属艇 1 兵士 1
市街地 下山字根室(旧松ヶ崎浜村) 1 村民1
風間小路(西堀前通10,11番町間) 2 市民2
新潟鉄工所(入船町4丁目) 1 工員1
47 一般29・兵士18

(『新潟歴史双書2 戦場としての新潟』から)

ページトップへ戻る

4.復興のあゆみ

4-1.沈没船の処理と浚渫

 新潟港の港湾施設は、大きな被害がなかった。しかし、触雷による新潟港内外の沈没船は16隻ほどあり、いくつかの船は終戦後も放置されていた。沈没船は船舶の航行の障害になり、川の流れをさえぎって港の水深を浅くした。

 本格的な沈没船の処理は、昭和21(1946)年度から始まった。5月に「宇品丸」の引上げ作業が始められ、船体は7月に浮揚し、改修のために舞鶴港へ曳航された。8月に「大黒丸」の引き上げ作業が始まり、昭和23(1948)年3月に浮揚して函館に曳航された。外の沈没船でも、船倉内の貨物の引上げや、船体の引上げ・解体などが行われた。

 浚渫は、昭和21(1946)年度から再開され、高性能のポンプ式浚渫船が2隻になるなど、毎年増強された。昭和22(1947)年度末に、海から臨港(りんこう)埠頭までの水路が戦前の水深に回復し、県営埠頭までの水路の水深は、昭和25(1950)年度に戦前のレベルを超えた。

4-2.掃海

 機雷の掃海は、昭和20(1945)年10月からアメリカ軍の指揮下で始められたが、翌年6月に打ち切られた。昭和23(1948)年9月から、海上保安庁によって再開され、24(1949)年6月に試航船が航行し、掃海の完了が官報で公示された。しかし、連合国の占領下のため、国際的な効力はなかった。

 昭和26(1951)年には、海上保安庁が日本海を漂流する機雷の大規模な掃海を行った。サンフランシスコ講和条約締結後の昭和27(1952)年1月、海上保安庁が新潟港の安全宣言をした。新潟港の年間輸移出入量は、昭和31(1956)年に戦時下のピークを超えた。

4-3.新潟飛行場の返還

 終戦後、新潟飛行場は進駐軍に接収され、アメリカ軍によって拡張された。日本への返還は、昭和33(1958)年3月であった。

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

5-1.軍用船宇品丸慰霊塔

 「宇品丸」が座礁していた場所に近い山田町町内会をはじめとする有志らが、8月1日の交戦により死亡した兵士・船員の霊を慰めるため、昭和29(1954)年、北部船見児童遊園地(現北部公園)に「軍用船宇品丸慰霊塔」(後、公園隣接地に移設)を建てた。慰霊祭は8月10日で、当初は山田町町内会主催であったが、昭和51(1976)年からは奉賛会の実施となった。平成8(1996)年からは奉賛会に代わり、地元有志が興源寺(附船(つきふね)町1丁目)で慰霊祭を続けている。


<写真:「宇品丸慰霊塔」>

5-2.平和祈念碑

 新潟市が、平成10(1998)年に戦後50周年事業として、新潟市雲雀(ひばり)町にある水戸教(みときょう)公園に「平和祈念碑」を建てた。日本人の戦争犠牲者はもちろん、俘虜として、あるいは強制連行されて、異国の地で亡くなった外国人の冥福を祈り、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいくために建てた。

 8月10日の除幕式には、「宇品丸」の慰霊祭関係者や、新潟市の俘虜収容所で終戦を迎えたカナダ人なども出席した。


<写真:「平和祈念碑」>

ページトップへ戻る