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盛岡市における戦災の状況(岩手県)

1.空襲等の概況

 昭和16(1941)年、第二次世界大戦突入と同時に戦時色を深め、軍事物資以外は生産制限が設けられ、伝統工芸の一つ南部鉄瓶も一時生産禁止となった。学校生徒も、学徒動員で軍需工場での作業や勤労奉仕作業を行なった。

 また、盛岡市は終戦の年に二度の空襲を受けた。一度目は、昭和20(1945)年3月10日未明盛岡駅前と大沢川原小路の一部が、次いで、8月10日には、盛岡駅付近等が罹災した。

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2.市民生活の状況

 初めての空襲だったが、赤ん坊を背に手押しポンプで消火する婦人や焼夷弾を布団で消し止める勇敢な市民もいた。

 盛岡市は空襲から街を守り市民の避難場所を確保するため7月2日、土地・建物の疎開14地区を決め、「28日までに立ち退き」が町会長らに通達された。移転者と移転のため商売が出来なくなる人には補償費が支払われた。8月2日には第二次疎開地区15地区が指定されたが二週間後に終戦となった。

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年3月10日午前2時、南方向から侵入したB29、1機の焼夷弾投下による空襲を受けた。罹災の状況は、盛岡駅地区を中心に盛岡鉄道管理部及び工機部、機関区並びに一般民家が焼失し、合わせて、家屋155戸、死亡者3人、負傷者5人、罹災者613人であった。

 二度目は、同年の8月10日午前11時頃艦載機グラマンF4、F6機による銃爆撃を受け、国鉄盛岡工場、盛岡ガス等が罹災した。

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4.復興のあゆみ

 盛岡市は、昭和21(1946)年10月9日に戦災都市に指定され、盛岡駅前の区画整理事業にかかり駅前広場を設定した。また、駅前幹線道も広げられ、138戸の家が移転した。さらに、昭和29(1954)年には盛岡城の内壕だった亀ヶ池の一部を埋め立て、街の中心部を結ぶ東大通地域街路整備事業を行なった。

 昭和34(1959)年には盛岡民衆駅が、昭和44(1969)年には駅前地下道が完成した。昭和57(1982)年には東北新幹線が開業し、駅前周辺も商店街も近代ビルが建ち、盛岡の玄関口として街並みは一新した。

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