昭和20(1945)年7月9日、今日も一日無事で終われると多くの人が思っていた午後11時頃、人々の思いを裏切り、ついに岐阜市にも米軍による空襲が行われた。
空襲は数時間続き、約130機のB29が参加し、1万発以上の収束焼夷弾と焼夷弾が投下された。
空襲の目標点として、市街地の中心であった徹明通りと金華橋通りの交差する地点が設定されたため、街は瞬く間に火の海となり、多くの建物が焼け、約900人もの市民が犠牲となった。
<空襲の目標点>(米軍資料より)
<空襲に使用された収束焼夷弾>(模型)
空襲の被害は死者約900人、負傷者1,000人以上、焼けた家屋約20,000戸以上、空襲による罹災者は最大10万人であった。市街地の約7割を焼失し、一夜の空襲によりまさに焼け野原になってしまった。
多くの市民でにぎわっていた丸物百貨店も空襲の被害を避けることはできず、焼夷弾の直撃こそ免れたものの、周辺部の火災の熱により炎上した。しかし、建物は崩れることなく残り、一面の焼け野原の中でその残骸が目立った。
現在、丸物百貨店(近鉄百貨店)は、既に取り壊されて存在していないが、空襲被害の跡が残っている柱の一部は、岐阜市平和資料室に展示されている。
空襲により焼け野原になった市街地には、大量の瓦礫が散乱し、電気、ガスなどのライフラインは寸断された。なお、瓦礫の一部は岐阜駅西側の陸橋の解体工事の際に、市民の協力により掘り出され、岐阜市平和資料室に展示されている。
市街地の復旧のために戦災直後から応急的な対策がなされていたが、終戦後、本格的な戦災復興都市計画が策定され快適な市民生活、経済活動のできる都市の建設が目標とされた。
空襲により家屋を焼失した市民も、バラックなどを建て、焼け跡での生活を始めた。住宅の復興のために、市からは木材や釘などの資材の提供がされた。これら関係者の努力と、なにより、市民の復興の意欲により、昭和21(1946)年の末には戦災家屋数の半分以上の家屋が建てられ、昭和26(1951)年には戦災家屋を上回る数の建築数となった。あわせて公営住宅、公営アパートなどの建設が行われ空襲により家屋を失った市民に提供された。
<空襲の被害> (模型)
<展示資料>
本市は、昭和63(1988)年に恒久平和の実現を願い行った「平和都市宣言」に基づき、平和資料室での常設展示、平和の折鶴募集・展示、平和の鐘事業などの活動を行っている。上記の紹介した資料なども平和資料室に常時展示されている。
<平和の鐘事業>
<平和の折鶴>