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名古屋市における戦災の状況(愛知県)

1.空襲等の概況

立地条件

 名古屋市は、北部(東、北両区)と南部(熱田、南、港の各区)に工業地帯、中央(中、栄両区)に商業繁華街があり、その中間や周辺地域には密集した住宅街があった。そのなかに、中小工場が散在しており、人口密度は高く住居のほとんどが木造であった。致命的ともいえる防空上の弱点を持っていた。

爆撃目標となった理由

 名古屋は工業都市であり、三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工等、多くの工場が立地していた。

 また、名古屋は航空機産業のメッカであり、とりわけ航空機生産の最大拠点である三菱重工業名古屋発動機は、東京の中島飛行機武蔵野工場とともに、米軍の日本本土空襲の第一目標であり、繰り返し目標爆撃の対象となった。

空爆の目的と種類

 初空襲は、昭和17(1942)年4月18日で、B25が2機来襲し、全部で6箇所に焼夷弾被害があった<ドゥリットル空襲>。その空襲の主な目的は、アメリカ国民の士気高揚であったとされている。

 そして、米陸軍航空隊(B29)の空襲目的は、まず、目標爆撃、精密爆撃により航空機産業の生産拠点を破壊することであり、さらに、焼夷弾による地域爆撃により、名古屋市街地を爆撃することであったが、他にも、気象観測、伝単(ビラ)の散布、偵察等といった目的でもB29は飛来した。

 また、B29の掩護等のためP51戦闘機が来襲したこともあった。
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)

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2.空襲等の状況

 昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中全面戦争の戦局が拡大した頃、日本では物資が欠乏し始めた。国民経済が、軍事中心に組み替えられたたためである。

 こうして、物資の不足傾向がはっきりと見られるようになると、輸出入の統制が強化され、他方で、奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則が公布・施行された。軍需物資増産の優先から生活必需品の不足が目立ってくるにつれ、切符による配給制度が広がった。まず綿糸の割当制が開始。そして砂糖の切符制も始まった。その後、昭和14(1939)年4月に米穀商が許可制となり、昭和16(1941)年4月に生活必需物資統制令が公布、名古屋市を含む六大都市で米穀配給通帳制・外食券制が実施された。戦時経済統制の進展は、民需生産の抑制と軍需生産の促進を基調とした。

 物資や労働力の不足により、中小商工業者は、昭和17(1942)年5月に公布された企業整備令によって整理統合された。こうして生み出された余剰人員は、軍需産業へ振り向けられ、軍需生産が可能な設備はそれに転用された。

 戦時体制の強化に伴い、名古屋市の都市計画の性格も変わっていった。まず、軍需産業の生産基盤を整備するため、用途地域の変更や追加指定を行い、土地利用面からの支援政策も展開された。また、防空・防火の目的等から空地地区の指定がなされ、公園・緑地についても防空緑地公園事業が進められた。さらに、密集地帯の一般木造家屋と病院・工場・学校などの大規模木造建築物を対象とし、外壁にモルタルを塗ったり、防火壁を設けるといった建築物の防火・改修が行われた。それとともに、貯水槽と公共防空壕の設置も進められ、昭和19(1944)年5月に1,355箇所の貯水槽、同年12月に横穴式延長350mの防空壕と130ヶ所の掩蓋式防空壕の設置がそれぞれ決定され、同時に事業に着手された。防空対策を十分なものとするため、建築物を除却する建物疎開も実施された。これは、昭和18(1943)年12月に閣議決定された都市疎開実施要綱を受けたもので、名古屋市では、昭和19年1月に第一期計画第一次指定として約95,200坪の疎開空地と、約96,300坪の疎開空地帯(4路線)を指定、その後も第四期計画まで指定が行われ、全部で110万坪余が指定され建物疎開が実施された。

 また、学童疎開も進められた。愛知県では昭和19年3月末から名古屋市内の国民学校児童の縁故疎開を進めたが、希望者は総計600名程度にすぎなかった。その後、学童の集団疎開の必要性が高まり、名古屋市においても名古屋市学童疎開実施要綱等を定め、縁故疎開ができない学童についての集団疎開が行われた。『愛知県教育史』第四巻によると、名古屋の縁故疎開児童は46,700名、集団疎開児童は109校32,157名であったとされている。
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)

<空地地区指定図>(昭和17年当初決定)
『名古屋都市計画史』より

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3.空襲等の状況

 太平洋戦争の間、米軍は、B25による初空襲を含め、名古屋に63回の空襲を行った。B29の来襲は2,579機に達し、投下弾は判明分のみで14,500tを超える。その被害は、死者7,858名、負傷者10,378名、被害戸数135,416戸に及んだ。

目標爆撃

 東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していたが、昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までに、7回の目標爆撃を受けて壊滅した。米軍資料によると、それらの爆撃により、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとする。

 三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機なども繰り返し爆撃された。工場疎開も行われたが、疎開先での生産は、その損失を回復するに至らなかった。

 また、昭和20(1945)年6月9日の愛知時計電機等の空襲では、防空壕に退避していた工員らが、警報の解除により工場に戻ったとき、あるいは戻りつつあるときに爆撃を受けた。その警報解除ミスにより、死者2,068名、負傷者1,944名と、人的被害において、名古屋空襲で最大の被害を出した。

地域爆撃

 昭和20年3月になると、米軍は、一万メートル前後の高空から工場に爆弾を投下するというものから、約2,000mの低空から夜間に焼夷弾を投下するものへと、空爆の戦術を転換した。

 夜間は戦闘機による迎撃も非常に少なく、また、高空で烈風と格闘することもなかったため、機銃装備や航空燃料を減らすことができ、焼夷弾を大量に積載できるようになった。

 こうして、昭和20年3月10日の東京に始まり一週間の間に、名古屋、大阪、神戸と日本の大都市に対し、大規模焼夷弾攻撃を敢行した。しかし、名古屋には東京より125t多く投弾したにもかかわらず、東京を壊滅したほどの効果はなく、そのため米軍は、再度3月19日に名古屋大空襲を行った。この日一日にして39,893戸に被害があり、死者は826名、負傷者2,728名、罹災者142,887名に達した。死傷被害を除くと、名古屋全空襲中最大のものであった。その他に大規模な市街地空襲は、最大472機が来襲、焼夷弾2,515tを投下し名古屋城が炎上した、5月14日の北部市街地への空襲、457機が来襲し、焼夷弾3,609tを南部市街地に投下した、5月17日の空襲などがある。
(参考文献:『新修名古屋市史』第六巻)


<写真:市街地空襲>(昭和20年5月14日)
『目で見る名古屋の100年』より

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4.復興のあゆみ

戦後復興

 昭和20(1945)年8月15日、焦土の中に終戦を迎えた名古屋市民は、厳しい生活難と闘いながら、いちはやく復興へと立ち上がった。名古屋市においても、市民の復興意欲にこたえて、画期的な復興都市計画を樹立し、将来人口の目標を200万人においた国際的産業文化都市づくりに着手した。この計画に基づいて、100m、50mの幅員を持つ広大な道路計画、復興土地区画整理地区内の全墓地の平和公園への移転をはじめ現在の名古屋を形づくる基礎的な事業が一挙に行われ、戦前の旧態を一掃した。名古屋市の復興率は終始大都市中の首位を占め、戦後の人口の復帰、増加も著しく、昭和25(1950)年には再び人口100万人を突破した。

中部経済圏の中核都市へ

 戦後世情の安定と経済の復興に伴い市勢も大いに伸び、次第に市域の狭小が痛感されるようになった。昭和30(1955)年4月、愛知郡猪高村および天白村を、同年10月に西春日井郡山田村・楠村、海部郡富田町・南陽町を市域に編入し、市域は一躍250.07平方キロメートル、人口も133万6780人を数えるに至った。

 戦後の名古屋市の発展はまことにめざましいものがあり、昭和32(1957)年には日本で3番目の地下鉄が栄-名古屋駅間に開通したのをはじめ、昭和34(1959)年には再建名古屋城も完成し、市内各所に大住宅団地が続々と建設され、市街地には高層ビルが立ち並んだ。

 一方、市内産業の発展も著しく、戦後はとくに従来の軽工業中心から重工業への転換が進んだ。名古屋港臨海部は大規模な埋立により新規大工場が続々立地し、名実ともに中部経済圏の中核都市として、わが国を代表する産業都市に躍進した。また昭和34年4月には、米国のロサンゼルス市との姉妹都市提携が成立、国際都市への道を歩み始めた。
(『市政2003』より)


<現在の名古屋駅周辺>


<復興した名古屋城と名古屋市街>

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5.次世代への継承

名古屋市における取り組み

名古屋市平和都市宣言

 名古屋市では、昭和38(1963)年に名古屋市会において「名古屋市平和都市宣言」が議決されており、それ以降、昭和54(1979)年の核兵器全面撤廃に関する意見書の提出や、中国、フランス、北朝鮮における核実験への抗議、インド、パキスタンの地下核実験に対する抗議、未臨界核実験中止を求める決議を行うなど、この宣言の理念のもとで行政運営を行っています。

戦争に関する資料館調査会

 名古屋市では、戦争体験を次の世代に伝え、平和を希求する豊かな心を育み、平和な社会の発展に寄与する施設として「戦争に関する資料館」の建設を検討するため、愛知県とともに調査会を設置しています。

 また、調査会では、「戦争に関する資料館」建設の検討以外にも、将来の資料館展示に向け、戦争に関する資料の収集・保管、インターネット戦争資料展の実施、戦争体験ビデオの制作などを行っており、さらに、平成15年度からは、収集・保管している戦争に関する資料を展示するため、戦争に関する資料館調査会「収蔵資料展」を開催しております。

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