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豊川市における戦災の状況(愛知県)

1.空襲等の概況

 本土空襲が始まると、敵機が豊川市上空を通過するのを見て、いつか豊川市も空襲されるだろうと誰もが思うようになっていた。昭和20年(1945)2月15日以降、名古屋方面を空襲した帰りの敵機が、残り弾をしばしば落としたことで、豊川市でも被害が発生し始めた。

 その主な被害は次のとおりである。

  • 2月25日 爆弾 死亡2 負傷5 家屋全半壊13((1)麻生田町・二葉町地内)鉄道橋梁破壊1((1)新豊町地内)
  • 5月19日 爆弾 死亡17 負傷2 家屋全半壊22((2)三谷原町・土筒町地内)
  • 5月19日 戦死24 負傷・物損不明(海軍工廠内)
  • 6月20日 焼夷弾 負傷3 家屋全半焼57((3)金塚町、美和通地内)
  • 6月26日 爆弾 死亡1 軍需工場・民家壊6((4)金屋町地内)
  • 8月 2日 市街機銃掃射 電車乗客死亡1((5)国府町地内)

 また硫黄島陥落後、戦闘機による空襲は、工廠や市街に何度となく飛来し攻撃を受けた。

 豊川海軍工廠も、防衛のため工廠周辺に高角砲台(高射砲台)2ヶ所と、廠内には機関砲台数ヶ所が造られた。また正規軍隊が守るほか、各工場も機関銃を備え、敵機が上空付近を通過するときは攻撃を加え、戦闘機による機銃攻撃の時はすべての砲台が一斉に応戦した。

 市内の各所に被害が出ている一方で、工廠は数度の敵戦闘機による小規模な空襲で済んでいたが、終戦1週間前の8月7日、遂に大規模な空襲を受けることとなった。

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2.市民生活の状況

 豊川市は、旧4町村のほぼ中央に広がる平地林に、昭和14(1939)年12月に広さ150万平方メートルの豊川海軍工廠が開廠したことがきっかけで、昭和18(1943)年6月に誕生した市である。

 豊川海軍工廠は、主に機関銃と機関銃弾を製造する工場であったが、後には光学部門も増設され、東洋一を誇る工廠となった。従業員も、海軍技術兵・工員のほか徴用工・女子挺身隊・動員学徒など全国より集め、56,000人ほどの人が働いていた。このため市内には新しい場所に市街や住宅・寄宿舎ができ、人口も増加し賑やかになっていった。

 県、市の指示指導により、隣組の防護組織が編成され、防空設備・防空訓練などがすすめられていたが、防空演習もたびたび実施され、どの家にも防空壕が造られた。

 サイパン・テニアン島が米軍の手にわたり、豊川海軍工廠も昭和20(1945)年初めころから、近隣や長野県、静岡県へ工場を分散疎開して空襲に備えていた。市でも豊川駅前の密集地帯では、建物の強制取り壊しが実施され、防火帯が作られた。

 近隣都市に戦禍が及ぶにしたがって、縁故疎開者が市内の農村部に流入し、日増しに増加していった。食料、衣料品等の必需物資は、配給制度であったため、次第に欠乏生活を余儀なくされていたが、農村地帯では供出に出せない等外品や、さつまいもの葉や軸などを食べていた。

 学徒動員は、昭和19(1944)年4月以降、市内2高等女学校、1中学校の高学年が動員され、次いで低学年と国民学校高等科児童も出動した。

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3.空襲等の状況

 8月7日午前10時過ぎ、三重県志摩半島上空より侵入した敵B29爆撃機の大編隊に対して「豊川海軍工廠に向かう模様」と東海軍管区の発表があり、空襲警報が発令された。工廠では、直ちに女子ならびに低学年学徒に避難命令を出したが、軍工場であったため、他の従業員に対しては避難命令が同時には出されなかった。ほどなく敵機が見え始め、爆弾投下が始まるころ「総員退避」の命令が出たがすでに遅く、次々に爆弾を投下をされた。

 B29は9〜11機の編隊を組み、総数131機による爆撃で工廠中心に避難途中の学徒・従業員をめがけ3,500発の爆弾を投下し、工廠は大被害を受けるとともに、派遣兵120名・動員学徒452名を含む工廠関係者2,500名以上の犠牲者が出てしまった。この8月7日の犠牲者と5月19日の犠牲者は、豊川海軍工廠が直属の軍工場のため戦死として扱われ、軍人以外の犠牲者も海軍軍属として扱われた。

 B29の攻撃は、ほぼ正確で大部分の爆弾は廠内に落下したが、特に工廠正門前及び工廠西門外側周辺にかけては、一般市民の家屋や通行人にも大きな被害が出て、在宅中の児童21名、入学前の幼児22名を含む市民113名が犠牲となった。
注)参考資料:「新編 豊川市史 第七巻 資料編 近代」(平成15年3月28日/豊川市 発行)

<空襲後の海軍工廠>

<旧工廠に残る空襲の爪痕>

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4.復興のあゆみ

 軍需産業都市として誕生した豊川市は、8月7日の爆撃により豊川海軍工廠の中枢施設の壊滅と、続く8月15日の終戦による兵器製造の中止という事態に直面した。1週間の間に起こった二つの出来事により、豊川市は市制誕生の拠所となった中核をすべて失った。終戦は豊川市制を根本から覆すものとなり、一時約9万1千人を数えた人口は、昭和20(1945)年9月には約4万9千人と激減し、市は合併前の町村に戻らざるを得ない危機的状況に追い込まれた。しかしながら、残された豊川海軍工廠跡と附属関連施設等の国有財産は、豊川市復興に光明を見出すものであった。

 この膨大な海軍工廠関連施設跡の国有財産を公共施設として有効に活用しようとする動きは、終戦直後の早い時期に見られた。

 工廠に建設されていた各種建物は、市役所、市民病院、学校、住宅などの施設として再利用された。さらに、海軍工廠被爆後一日も休まず稼動を続けた水道施設は、豊川市に貸与され豊川市水道事業施設に生まれ変わった。また、工廠内に目を移せば、国の鉄道工場、研究所、警察予備隊駐屯施設などに再利用された。しかし、廠内にはまだ130万平方メートルに及ぶ広大な国有地が積極的な利用方法が講ぜられないまま残されていた。

 豊川市は、市の復興の見地から、廠内遊休地の再利用の動向が市の存続と盛衰にかかわる問題であるとして、工業都市再現化に向けて工場誘致に努力を払った。しかし、昭和27(1952)年4月の講和条約発効に伴う賠償機械指定解除まで表面だった動きは見られなかった。昭和32(1957)年、誘致運動後5年目にして、多難であった工場誘致運動の第1号が功を成し、ようやく民間企業が廠内での工場建設を開始した。以後同39(1964)年までの間に続々と民間工場が廠内に誘致された。これにより豊川市は、昭和30年代に赤字財政から抜け出し、民需による内陸工業都市への復興を果たした。さらに、工廠正門前一帯の被爆地には都市公園や多くの公共施設が設置され、豊川市の中心となる新市街地を形成するようになった。

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5.次世代への継承

 終戦を迎えた8月15日にも豊川海軍工廠内では戦没者の遺体収容作業が続行されていた。遺体は遺族に引渡されず、市内の千両町と諏訪町の山林に急造された海軍墓地に20〜30体ずつ纏めて仮埋葬された。また、豊川閣(豊川稲荷・妙厳寺)では、寺内の最祥殿に遺骨箱を安置し、朝夕の読経慰痍行事が行われ、その後四十九日の法要が営まれた。

 昭和20(1945)年10月、豊川閣裏(現 豊川市緑町)の広場では、豊川海軍工廠従業員報国団が全国より浄財を集めて戦没者供養塔建立の準備が進められ、翌年の9月23日供養塔竣工除幕式を行った。以後8月7日の命日にはここで慰霊祭が行われた。しかし、2か所の海軍墓地は戦後の混乱により管理者もなく、また工廠幹部職員も生活に追われて戦没者を顧みる余裕はなく、供養は遺族や同僚達によりそれぞれに行われていた。もうすぐ七回忌を迎えようとする昭和26(1951)年、呉地方復員残務処理部が主となり、愛知県民生部と豊川市役所が協力して海軍墓地の遺体を発掘し、遺骨を命日まで渡されることになった。作業は6月1日に始まり、81か所の墓地から2,385柱の遺骨が収容され、遺友会合同慰霊祭後遺族に渡されたが、引き取り手のない200柱の遺骨は、呉の海軍共同墓地に葬られた。

 十三回忌に当る昭和32(1957)年、海軍工廠全従業員による「八七会」が結成され、遺族を招待して供養塔前での慰霊祭が八七会の行事となった。またこの日の夜、豊川閣境内において「みたま祭り」の盆踊り供養が行われた。さらに17回忌を迎える昭和36(1961)年、豊川稲荷音頭奉賛会は8月7日の被爆犠牲者の霊を慰めるため、豊川連区の町内会や各団体参加の「みたま祭り」を行うようになった。8月7日は豊川閣境内で、翌8日は豊川駅前の大通りで「みたま安かれ」と祈念した盆踊りが年中行事として現在まで続けられている。

 また、昭和40(1965)年には海軍工廠被爆20年に当たり、世界の恒久平和を祈願する「平和の像」の建立が海軍工廠の生存者で組織する「八七会」を中心として進められ、工廠正門前の元工廠神社跡地に建立された。平和の像は、日本の一番平和であった天平時代の女性の風俗に現代感覚を取り入れた平和のシンボルにふさわしい女人像で、作者は金沢美術大学教授、日展審査員矩幸成氏、題字の揮毫は佐藤栄作首相によるものである。

 豊川市は戦災指定都市ではないが、海軍工廠戦没者の慰霊や平和を願う行事と並行し、豊川市地域文化広場の豊川市郷土資料館では、毎年8月7日を中心に「豊川海軍工廠展」を開催し、歴史的事実を後世に伝えようとしている。

<供養塔>

<みたま祭>

<平和の像>

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