総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 桑名市における戦災の状況(三重県)

桑名市における戦災の状況(三重県)

1.空襲等の概況

 桑名空襲は、昭和20年(1945)1月31日午後11時30分頃、上の輪・播磨の中間の田圃と西桑名地区の山林に各1発の爆弾が投下されたことに始まる。2回目は3月11日に、民家の庭に投下された。3回目は、5月17日夜半に焼夷弾が投下され、2名が桑名空襲初の犠牲者となった。

 4回目は、その一週間後で、戦争終結の前月、7月17日未明の焼夷弾大空襲で市街地は焦土と化した。

 米軍の資料によれば、17日午前1時25分から2時40分にかけて、B29機94機が、100ポンドのM47焼夷弾5,837発と500ポンドのE46焼夷集束弾2,460発を投下し、市街地の77%、山本重工30%、三菱重工80%が破壊されたとなっている。


『ふるさとの想い出写真集明治大正昭和桑名』から転載

 この空襲は、東船場から本町・江戸町・宮通・職人町・内堀・元赤須賀・赤須賀の開勢町・市場町と揖斐川に並行して投下され、そこで反転して、市街地外周を弧を描いて鍋屋町・矢田磧へと進行し、市内を一周したとのことである。

 5回目は、1週間後の7月24日で、午前10時55分から11時27分にかけて白昼午前10時55分から11時30分頃にかけて、B29機123機で500キロ爆弾48個、1トン爆弾、794個が投下された。集中攻撃を受けた地域は、桑名周辺、東洋ベアリング、堤原から今中町・今北町・今片町・太一丸・船場にかけての一帯、内堀の貝塚別邸(現貝塚公園)周辺、国鉄、近鉄の鉄橋周辺、稗田であり、三の丸、八間通にも投下された。最後の空襲は、30日の昼間、P51艦載機による爆撃と機銃掃射により三菱重工の社員等5名が亡くなられた。
(「桑名の空襲」より抜粋)


<三重重工(元東洋紡績)の焼け跡>
(小林カメラ提供『消えない夏の日』くわな戦争を語る会より転載)

 3回目までの空襲は、米軍の五大都市への集中攻撃による名古屋への攻撃の余波であった。

  4回からは、桑名市が標的とされている。米軍は、五大都市への攻撃が一段落した昭和20(1945)年6月からは、中小都市への攻撃を開始した。アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の報告書『名古屋市爆撃の効果』によれば昭和20(1945)年6月に、第20空軍は第二級の日本都市に対して一連の地域攻撃を開始した。これらの攻撃目標の中に、名古屋市の5つの衛星都市(岐阜、大垣、一宮、岡崎、桑名)が含まれていた。これらの5都市攻撃の目的は、第一に国民の戦意を打ち砕くことであり、第二には、五都市の産業を破壊することであった。

 米軍戦術作戦任務報告書(抄)昭和20(1945)年7月17日の目標の重要性(3)には、桑名は、高度に工業化した町で、揖斐川の河口、名古屋城の南西12マイルの所にあり、約92,000の人口である。

 桑名は、四日市の北6.5マイルのところにある。桑名は、摩擦をなくすベアリングの日本生産工場の大きな部分を占めているとともに、木綿混紡布や機械工具の工場、特殊鋼や紡績工場状が存在しているが、これらは恐らく軍需産業に転換されているだろう。
「桑名の空襲」くわな空襲を語る会より抜粋

ページトップへ戻る

2.市民生活の状況

国民学校(小学校)の校庭を農園化し、桑名市内の各校ではさつま芋を植えていた。

 桑名の代表企業であった東洋紡績桑名工場は、昭和11(1936)年に益生に分工場(現サンジルシ工場の場所)を設けたが、繊維産業よりも兵器産業への国策によって、桑名工場は昭和18(1943)年11月に、分工場は昭和19(1944)年に、いずれも三菱重工業へ賃貸され、航空機の部品工場へ転換させられた。また、産業の軍需化で規模を飛躍的に拡大したのは東洋ベアリングであった。昭和14(1939)年には兵庫県の武庫川にも工場を設け、ベアリング業界では、常にトップの地位を占めており、昭和12(1937)年の生産額四百万円が、昭和19(1944)年には1億二千六百万円へと実に28倍もの増加である。この間に全国シェアも36%から41%へと拡大している。桑名工場では最盛期に、全国の航空機用ベアリングの70%を供給しており、昭和25(1950)年現在、8千人もの従業員(学徒動員も含む)が働いていた。


<荒地の開墾> (桑名市芳ケ崎・昭和18年)国民学校の生徒による開墾作業
『図説北勢の歴史』より転載

 これらの軍需工場を防衛する目的で、桑名には高射砲2個中隊が配置され、10門の高射砲が置かれた。また、関西線木曽川鉄橋を防衛するために、高射砲が配置されていた。戦時体制が強化されるとともに、学生も動員されて、勤労奉仕に出るようになった。昭和19(1944)年、県立桑名高女では、卒業生のうち就職組の生徒を除いた70名が2月1日から3月15日まで東洋ベアリングで勤労奉仕した。また、桑名中学では、約50名が報国隊として、3月11日から17日まで暗渠排水工事応援のため、桑名市、桑部村、七取村へ出動。次いで第二次報国隊として、4月には桑名中学延1,500人が農地改良工事のため、桑名市、三郷村、七取村、員弁町へ出動している。やがて、学徒動員はさらに強化され、一時的な動員ではなく通年動員体制がとられ、学校へ行かずに工場へ通勤するようになった。学徒動員の第一陣壮行会は、昭和19(1944)年4月25日に、津・四日市・桑名地区などで行われた。動員体制はさらに強められ、7月には10時間勤務、深夜作業も実施され、国民学校高等科の生徒も動員された。また、このころには国民学校の校庭も生徒一人当たり0.7坪づつを残して他の校庭はすべて農園化し、桑名市内の各校では甘藷を植えている。
(「消えない夏の日」解説西羽晃より抜粋)

ページトップへ戻る

3.空襲等の状況

昭和20(1945)年7月の2度の空襲で桑名市は焦土と化した。

空襲等の状況
空襲の回数 規模 被災の種類 被災地名 面積 死傷者数
1回目
昭和20年1月31日
爆弾各1発 被害軽微 東方湖川地区田圃の中
西桑名長地区山林
  負傷者  
死者
2回目
昭和20年3月11日
爆弾 被害軽微 矢田町内民家の庭   負傷者  
死者
3回目
昭和20年5月17日
焼夷弾 全焼15戸 坂ノ下   負傷者  
死者 2人
4回目
昭和20年7月17日
焼夷弾攻撃       負傷者 735人
死者 390人
5回目
昭和20年7月24日
爆弾攻撃       負傷者 350人
死者 267人
6回目
昭和20年7月30日
爆弾・機銃掃射     負傷者  
死者 5人


<「桑名の空襲」>くわな戦争を語る会より転載

 桑名市史によると、「7月17日と24日の空襲で、罹災地面積は691,200坪(全面積の約91%)

 死者416名、負傷者364名、行方不明者51名、全焼家屋6,950戸(全戸の71%)半壊家屋181戸、罹災人員28,754名(全人口の約65%)罹災戸数6,849戸、被害道路1,000米、被害橋梁5ヶ所、同樋門2ヶ所、同堤防9ヶ所、同溝渠1,500米を出し、全市民の約7割が罹災した。」となっており、下記、被害の状況「桑名警察署沿革誌」とは少し数字がくい違っています。

被害の状況(「桑名警察署沿革誌」

  1. 罹災戸数 6,835戸(全市の約8割)
  2. 罹災者数 28,447人
  3. 死傷者数
死亡者 7月17日 7月24日 合計
  身元判明死亡者 250人 190人 440人
  身元不明死亡者 45人 15人 60人
  病院死亡者 57人 11人 68人
  行方不明者(死亡) 38人 51人 89人
合計   390人 267人 657人
負傷者 735人 350人 1085人

 主なる焼壊物は、市役所、桑名駅、税務署、僧院地方事務所、東洋ベアリング、三菱重工、山本重工業、同鋳造、同魚網、三重琺瑯、日立製作所、鷲野精機、その他の工場や桑名遊郭、魚の棚、八間通、三崎通、宮通から吉津屋、鍛治町に至る商店街、赤須賀漁場も一面焦土と化し、春日神社、桑名別院(本統寺)を始め、薩摩義士の菩提所海蔵寺、旧城主本多忠勝の本廟浄土寺等その他の神社仏閣及び三常設映画館、劇場も皆烏有に帰した。学校では都心部所在校はもとより、市街西方山上の中学校(桑名中学)、大成国民学校まで焼け、第五国民学校(益生小学校)だけが奇跡的にも難を免れて市役所の仮庁舎に利用された。又桑名警察署、桑名郵便局、同電話分室の三つは何れも猛火に包まれながらも難を逃れた。
(「桑名市史」より抜粋)

ページトップへ戻る

4.復興のあゆみ

終戦後間もなく人々は、復興へと立ち上がった。近代的都市建設をめざした、復興事業も始まった。

 復興に向けて、とりあえず仮設の住宅が建てられ、国の復興計画基本方針に従い、罹災地区190.7haを対象に、幹線道路や公園、上水道などの面的な復興整備計画が1年のうちに練られ、1946(昭和21)年に事業が始まった。

 その計画の中では、防災や美観に配慮して国道1号線を30mに拡幅し、これを基本に東西南北に幹線道路が配置され、未利用であった現在の中央町付近を含めてかたちの整った街区に整備され、住まいの環境が大きく向上した。

 現在の中心市街地の都市計画は、ほぼこの時に決定している。この復興事業は、1966(昭和41)年に20年の歳月をかけて完成した。
(「まちづくり極意くわな流」より抜粋)

4-1.戦災地応急対策

(1)清掃事業
年度 坪数 事業量 事業費
昭和21年度 76,500坪 7,650m3 907,000円
昭和22年度 47,000坪 4,700m3 416,000円
(2)金属回収事業

昭和21(1946)年度において鉄屑152.3トンを回収、中京金属会社に売却した。

(3)戦災死没者会葬事業

身元不明者270体を、昭和23(1948)年度において事業費178,200円(1//2は国庫補助)で仮埋葬した。

(4)上水道事業

市街地部分全域が消失したため給水戸数すべてを失い、配水管は代償27箇所において飛散断落したが、昭和20(1945)年10月より配水管の応急工事に着手し、23(1948)年3月に完了した。

(5)住宅対策事業

簡易住宅の建築を促進するため、県復興課の斡旋により旧鈴鹿海軍工廠その他から木材その他資材の配給を行って、木造簡易住宅8坪のもの840戸及び建坪6坪のもの825戸を建築した。

4-2.戦災復興計画の概要

市議会と理事者からなる復興委員会の設置

 第1回委員会 昭和20(1945)年10月1日開催。県都市計画課長にも出席を求めて、桑名市の戦災復興について国の方針を中心として意見交換がなされた。戦災を契機として文化的近代都市を建設するため、戦災復興の土地区画整理を実施して都市計画街路網の実現を図ることとなったが、市民の協力なしには不可能であるので、10月3日、都市計画の概要および街路網一覧表を書各町内会長に送付して趣旨を徹底する方途を講じた。

 昭和21(1946)年1月22日、本市の都市計画委員会を開催して県より指示された計画街路について検討、審議の結果、復員の縮小、路線の一部廃止及び土地区画整理の主体を県に委任することを決議し、県に陳情を行った。県は了承し、諸手続きを経て昭和21(1946)年8月16日、戦災復興院告示第87号をもって、施行面積約1,072,000坪とする特別都市計画事業桑名都市計画復興土地区画整理が決定された。

 その後、自作農創設特別措置法の施行に伴い、施行面積の縮小を余儀なくされ、約974,500坪に変更になり、更に復興年計画の再検討により施行区域を縮小することになった。
(「戦災復興誌第6巻」より転載)

事業決定年月日および執行年度割
事業決定(変更)年月日 執行年度割決定(変更) 年度 摘要
昭和21年8月16日決定 執行年度割決定 昭和21年度〜25年度 戦災復興院告示第87号
昭和22年11月8日変更 執行年度割変更 昭和25年度〜29年度 戦災復興院告示第107号
昭和30年5月27日変更 執行年度割変更 〜32年度 建設省告示第823号
設立認可
地区名 面積 設立認可年月日 摘要
特別都市計画事業桑名復興土地区画整理地区 1,072,000坪 昭和21年8月16日 戦災復興院告示第87号
974,500坪 昭和22年8月6日 戦災復興院告示第87号第1,121号
569,000坪 昭和30年3月19日 建設省三計第4号
事業の施行効果

 桑名市は旧城下町の自然発展の小都市で、整理施行前は、広幅員道路としては、国道1号線、復員12メートル、桑名駅前より東へ約1,100メートル、幅員8間の道路があるのみだったが、整理後、国道1号線は30メートルに拡幅され、新たに幅員20メートル(1本)、15メートル(3本)、12メートル(1本)他に区画が色が縦横に貫通し、公園は戦前わずかに1箇所であったものが、整理後12箇所となり、文化都市としての今後が期待される。
(「戦災復興史 桑名市」より抜粋)

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

 毎年7月の第3日曜日に桑名空襲追悼式が開催される。場所は、平成10(1988)年7月に貝塚公園内に建立された、桑名空襲慰霊之碑の前で行われる。この碑が建立されるまでは、戦災死没者の一部173名が走井山にある戦没者のための殉国碑に合祀されていた。


<貝塚公園内にある桑名空襲慰霊之碑>

慰霊碑の裏面

 太平洋戦争が終結する昭和二十年(1945年)七月十七日未明米軍機B29爆撃機が桑名に来襲し、焼夷弾10数万発を投下した。市民の逃げ惑う様子はさながら阿鼻叫喚の生き地獄であった。さらに七月二十四日の白昼B29爆撃機が一トン爆弾八一八発を投下し、これにより多くの尊い命が奪われた(面積当たりの爆弾投下量は七一一トンで全国一であった。)この空襲の悲惨さを後世に残すと共に二度とあってはならない戦争の恐ろしさを永きに亘り語り継ぐ礎として、爆弾を受けた貝塚公園に碑を建立する。

罹災状況罹災面積691,200坪
罹災戸数6,835戸
罹災者数28,447人
死亡者数(身元不明者含む)657人
平成十年七月建立賦桑名空襲慰霊碑建立 伊藤仙岳
戦禍惨憺勢州津 殉難無事浄法身
仰見霊祠名脈脈 君冥此處弔花脣

<読み方>
桑名空襲慰霊碑建立に賦す桑名空襲遺族 伊藤仙岳(晶)
戦禍惨憺(さんたん)勢州津(しん)。 殉難無事(むこ)浄法身(じょうほっしん)
仰ぎ見る霊祠、名は脈脈。 君此の処に冥して、花脣(かしん)を弔う。

<大意>
古くから十楽の津として反映した桑名も、再度に渉る空襲により、多数の罪なき人が
その難に遭い、浄らかな霊界へと旅立った。
今この地に建立された慰霊碑を仰ぎつつ、ここに連なる皆様方のご名跡が永久(とわ)に語り継がれるであろう事を信じ、参集者一同の献花を以って皆様方のご冥福をお祈りする。


<慰霊碑の裏面>

ページトップへ戻る