所在 | 青物町交差点角(レストラン壁面) |
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住所 | 神奈川県小田原市浜町3-1-32(JR小田原駅 徒歩15分) |
連絡先 | 碑は御遺族が保管中 |
建立者 | 大南勝彦 |
建立年 | 平成2年6月10日 |
※H22.11発行「平成22年度 全国戦災史実調査報告書」より
(調査時期H22.7〜10月/情報提供元は、大南勝彦)
小田原空襲の碑
第二次世界大戦最後の空襲
大南勝彦
その昔 小田原宿は、東海道沿いと甲州街道沿いとに家並み
がひろがっていましたが、当家の所は此の両者の交わる地点
で、青物町一丁田へと伸びる甲州街道の基点でもありま
した。
第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争の最後の日の夜半
から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による
焼夷弾爆撃を受けました。
一九四五年(昭和二十年)八月十四日夜半、B29一機が来襲。まず
照明弾が落とされ、旧甲州街道沿いに大量の焼夷弾攻撃
を展開、当家は八箇の焼夷弾による直撃を受けま
したが、警防団の消火活動で一旦鎮火。しかし十五日午前
一時頃炎に包まれました。
高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋は合わせ
て四〇二戸。罹災者一八四四人。負傷者六五人。死者四八人を
数えました。
日本がポツダム宣言受諾を打電したのは八月十日でしたが、
その後も交戦状態は続き、無条件降伏を決定したのは八月
十四日、小田原空襲はそのあとに行われたもので、国内の
他の数カ所の地域と共に、文字通り第二次世界大戦最後の空襲
でした。