所在 | ひめゆり平和祈念資料館に隣接 |
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住所 | 沖縄県糸満市字伊原672−1 (糸満バスターミナルより 琉球バス交通「ひめゆりの塔前」下車 徒歩すぐ) |
連絡先 | ひめゆり平和祈念資料館 098−997−2100 |
建立者 | 真和志村 |
建立年 | 昭和21年4月 |
※H25.11発行「平成25年度 全国の戦災の追悼施設・追悼式」より
(調査時期H25年度/情報提供元は、ひめゆり平和祈念資料館)
【表】
ひめゆりの塔
教師・学徒 戦没者
沖縄師範学校女子部 百十五名 氏名表記
沖縄県立第一高等女学校 百十二名 氏名表記
ひめゆりの塔の記
昭和二十年三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射
撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一高等女学校
の職員生徒二百九十七名は、軍命によって看護要員としてただちに
南風原陸軍病院の勤務についた。
(中略)
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜南風原陸軍病院は
重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾
をくぐり、繃帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
(中略)
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散
を命ぜられた。翌十九日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて
地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩
に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等二十九名、民間人六名も運命
をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよひ
沖縄最南端の断崖に追いつめられて多く消息をたった。南風原陸軍病院
に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。
(中略)
乙めらは涙と血とを流してえた体験を地下
に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。