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戦災に関する物品・写真

写真館

 戦災都市及び各地資料館などが保有する戦災に関する物品の写真や戦災の模様を伝える写真をご覧ください。

物品の写真

16インチ砲弾の破片
釜石市郷土資料館展示
モンペと標準服
釜石市郷土資料館展示
防空頭巾
釜石市郷土資料館展示

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戦災の写真

勤労作業
函館白百合学園『百周年記念誌』
来襲したアメリカ軍の艦載機
米国国立公文書館蔵、青森空襲を記録する会提供
爆撃を受けた函館駅構内
米国国立公文書館蔵、青森空襲を記録する会提供
爆撃を受ける連絡船
米国国立公文書館蔵、青森空襲を記録する会提供
疎開先の高盛国民学校の児童たち
昭和20年8月7日付「北海道新聞」
警防団による防火訓練
三瀬哲秀氏提供
軍需工場で働く遺愛女学校の生徒
昭和20年3月11日付「北海道新聞」
16インチ砲弾の穴
 
室蘭飛行場
 
日鉄の鋳物工場の破損状況
艦砲射撃による中島町日鉄社宅街の惨状
 
防空壕
 
「陸軍一式戦闘機=隼」の残がい
「丸」昭和52年10月特大号より
攻撃を受け煙をあげる工場地帯
昭和20(1945)年7月14日、15日、八戸はグラマン戦闘機による最初の空襲を受ける。目標となったのは工場地帯、港湾、鉄道、飛行場であった。
市街被災地
釜石艦砲戦災誌より引用

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市街被災地1年後
釜石艦砲戦災誌より引用
市街被災地30年後
釜石艦砲戦災誌より引用
第1回艦砲射撃着弾図
釜石艦砲戦災誌より引用
第1回艦砲射撃航路図及び第2回艦砲射撃航路図
釜石艦砲戦災誌より引用
第2回艦砲射撃着弾図
釜石艦砲戦災誌より引用
艦砲射撃直後の釜石製鉄所
釜石艦砲戦災誌より引用
8月16日の朝
撮影:松岡信光氏
かたづけ作業
撮影:佐藤虹二氏
仮家たつ
撮影:佐藤虹二氏
編隊飛行
撮影:佐藤虹二氏
近藤醤油倉庫の壁
撮影:佐藤虹二氏
防空壕造り:旧弥生町
撮影:石川守彦氏
防空訓練:鎌倉町
撮影:佐藤虹二氏
市川町及び国府台軍用地の様子
『船橋及国府台近傍図』(昭和9(1934)年 1/2.5万)
被災中の市川新田地域と現在の国道14号線
昭和20年2月25日 福地家資料

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戦前の船橋市
海老川河口と船橋漁港
昭和27(1952)年の本町通り
 
船橋市の主な被災地域
 
焼け野原と化した墨田区
残っている手前の丸い建物は旧国技館
防火演習の様子
 
北区戦災区域図
昭和63年3月作成
米軍撒布ビラ
今井豊子氏所蔵
終戦時の旧軍用地「北区史」から
北区における旧軍の施設調査報告」をもとに「新修北区史」を参照して作成
金属類非常回収
「王子区隣組回報」昭和18(1943)年7月(清水吉一氏所蔵)
防火演習
写真提供:山野井静代氏
防諜週間実施
「王子区隣組回報」昭和17(1942)年7月(清水吉一氏所蔵)
出撃態勢の「鍾馗」
 
昭和10年代の川越街道
 
昭和11(1936)年の出征風景
 
昭和16(1941)年板橋第四国民学校での防空演習
 

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昭和20(1945)年焼失する志村地区の小学校
 
板橋第六国民学校の疎開先 古屋ホテル
 
「イモ電」で買出しに出かける人々
 
グラントハイツのときの光が丘周辺
 
グラントハイツ返還・跡地利用運動
 
グラントハイツ全景
 
グラントハイツ正門案内看板
“ようこそグラントハイツへ”の正門案内看板
ケーシー線
別名「啓示線」とも表していた。
出撃のため整列する特攻隊員
 
建設中の成増陸軍飛行場(昭和19(1944)年)
 
成増陸軍飛行場を出撃する戦闘機
 
成増陸軍飛行場建設の地鎮祭
 
戦争前の、のどかな田園風景(現在の光が丘付近)
 
戦争前の光が丘周辺の地図(昭和15年頃)
 
戦前、練馬の農家の暮らし
たくあん漬にする練馬大根の日干し風景

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空襲後の小松川2丁目付近
 
終戦となり戦闘機の残骸だけが散らばる成増陸軍飛行場
 
終戦後の成増陸軍飛行場(昭和22年)
 
軍需工場への学徒動員
 
防空訓練のようす
 
砂川闘争
 
立川空襲
立川空襲の空撮
立川空襲被災地図
 
立川飛行場
 
米軍相手の商店
 
被災直後の山中坂
 
防火訓練
 
防火訓練
 
陸軍飛行第五大隊移駐
 

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