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広島市における戦災の状況(広島県)

1.空襲等の概況

 広島市は、太田川が上流から運んできた土砂の堆積による三角州(デルタ)の上の発展した街である。江戸時代、中・四国地方第一の城下町として栄えていたが、明治維新後は広島県の県庁所在地として新たな出発をした。江戸時代から進められていた干潟地の埋め立ては、明治時代になると一段と規模を拡大し、広大な陸地と外港が作られ、産業経済が大きく発展した。第5師団司令部が設置されていた広島は、陸軍の兵器補給廠、被服補給廠、糧秣支廠や軍事工場を擁する一方、高等師範学校をはじめ、多くの学校がつくられるなど文化的・教育的にも重要な都市となり、いわゆる「軍都」「学都」の二つの都市の顔を持っていた。

 広島市への空襲は、昭和20年3月18、19日に艦載機編隊による小空襲のほか、昭和20年4月30日、1機のB29により小町の中国配電株式会社等に10発の爆弾が投下され、死者10人、負傷者16人、罹災者200人が出た。その他には自立った空襲もなく、(1)都市の大きさや地形が原爆の破壊力を実験するのに適当だったこと、(2)軍隊、軍事施設・工場が集中し、しかも無傷であったこと、などから昭和20(1945)年8月6日、世界最初の原子爆弾が投下された。

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2.市民生活の状況

 戦争が激化するとともに、昭和19(1944)年11月から、焼夷弾攻撃等による火災の延焼を防ぐため建物の強制疎開が第6次にわたって実施され、また昭和20(1995)年4月から7月にかけて、集団疎開や縁故疎開により約2万3,500人の学童が県北の山間部へ疎開した。このような強制疎開などにより、昭和17(1942)年には約42万の人口が昭和20年6月には約24万5,000人(米穀通帳登録人数)に激減した。

 戦場に働き手をとられた農家では、人手と肥料などの不足に悩み、戦時中の食糧生産は大幅に減った。戦争の長期化と戦局の悪化はこれに拍車をかけ、学校の校庭までが食糧不足を補うため、畑として使われたり、豚などの家畜が飼われた。

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3.空襲等の状況(原爆の状況)

 昭和20(1945)年8月6目(月)午前8時15分、1発の原子爆弾により広島市は一瞬のうちに灰塵に帰した。午前7時9分に発令された警戒警報も午前7時31分に解除され、市民は防空壕などを出て、建物疎開作業、通勤、炊事などに取り掛かっていた。太平洋マリアナ諸島テニアン島から発進したエノラ・.ゲイ号を含む3機のB29は、東から広島に進入し、市の中心部に高度9,600mからウラニュウム原子爆弾「リトルボーイ」を投下し、地上約580mで炸裂させた。爆心地は広島県産業奨励館(原爆ドーム)の中心から東南約160m、島外科病院(当時細工町19番地)辺りとされている。

 広島型原爆の威力は、TNT火薬に換算すると1.5万t相当とされているが、当時B29が5tの通常爆弾しか搭載できなかったので、一度に3,000機のB29に爆撃されたことになる。爆発と同時に「火球」が生じ、1万分の1秒後には半径約14mまで広がり、温度は摂氏約30万度近くにもなった。爆発により強烈な熱線と放射線が放射されるとともに空気がものすごい力で膨張し爆風となった。放出されたエネルギーの約35%が熱線に、約50%が爆風に、残りの約15%が放射線となったと考えられている。原子爆弾と一般爆弾との違いは、この放射線による障害である。爆発による初期放射性物質に止まらず、地上に降った核分裂片や中性子により誘導された放射性物質の残留により、長時間にわたって地上からも放射されたため、後々までも後遺症に苦しめられている。

 爆発による強力な熱線は、600m離れた屋根瓦の表面を泡状にさせ、約1km以内の花闘岩の表面を白っぽく変化させた。また約2km以内では着衣や洗濯物に、約2.5kmのわら屋根に着火して炎上した例もある。市内各所の自然発火に続き、朝の炊飯の火などを原因とする火の手が上がり、爆心地から半径約2kmの地域はことごとく焼失した。

 さらに、衝撃波や爆風により建造物は大きな被害を受け、木造家屋では2.3km以内ではほとんどが倒壊し、3.2kmの地点でも建具類が吹き飛ばされ、屋根瓦がずれたりした。

 原爆特有の放射線により人体に非常に大きな影響をもたらした。爆発による初期放射線だけでなく、肉親や同僚などを求めて、また、救護のために爆心地から1km以内を、爆発後100時間以内に行動した人は残留放射能による影響を受けた可能性が大きい。また、爆発後20〜30分ごろから市域の北西部地域に放射能を含んだススやホコリ等の放射性降下物を多量に含んだ「黒い雨」が降り、遠隔地まで放射能の影響が及んだ。

 原爆により死亡した人数は正確につかめていない。現在は、急性障害が一応落ち着いた昭和20(1945)年12月末までに約14万人(誤差土1万人)が死亡したと推計している。

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4.復興のあゆみ

 広島市の復興は、被爆直後の陸軍船舶司令部(暁部隊)を中心とした救護活動から始まった。負傷者の収容や死体の処理も数日のうちに終了し、幹線遣路もトラックが走れるよう.に一応清掃された。そして、終戦を迎え暁部隊等の解散により一時停滞したが、県下や隣県からの救援隊により少しずつ推進されていった。都市の復興にあたっては、昭和20(1945)年11月に広島市議会戦災復興委員会が設置され、昭和21(1946)年1月に市に復興局が開設され、2月に市長の諮問機関として復興審議会が組織され、市、市議会、市民が一体となって戦災復興を進めていった。昭和21年10月、特別都市計画法の戦災復興都市としての指定を受け、24の幹線道路、35カ所の公園、2カ所(1,520ha)の土地区画整理事業が復興都市計画として決定され、戦災復興事業が実施されることになった。しかし、戦災による財源の全面的な喪失、終戦後のインフレのため、広島市の財政は壊滅的な状況であったため、特別法制定に向け各方面からの努力が払われた。その結果、昭和24(1949)年5月、国会において「広島平和都市建設法」が満場一致で可決され、同年7月の住民投票を経たあと、8月に制定公布された。この法律の趣旨に沿い、昭和27(1952)年に広島平和都市建設計画が策定され、平和記念公園、平和大通りを含む今日の広島市の都市計画の根幹となっている。その後、社会情勢の変化に対応し、21世紀を視野に置いた都市づくりの方向を明確にするため、「国際平和文化都市」を都市像とする「第3次広島市基本計画」を策定し、都市づくりに積極的に取り組んでいる。

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5.次世代への継承

 被爆後1周年を迎え、昭和21(1946)年8月5日に市内の町会連盟主催により平和復興広島市民大会が旧護国神社広場(基町)で、6日に中島本町の慈仙寺鼻の礼拝堂で神道、仏教、キリスト教、教派神道の戦災死没者一周年追悼会が執行された。またこの年から、午前8時15分の黙祷を市民に呼びかけている。さらに、昭和25(1950)年を除く毎年、平和記念式典(当初は平和祭)を開催し、広島市長により「平和宣言」を行っている。被爆50周年の平成7(1995)年は、内閣総理大臣をはじめとする三権の長の出席を受け、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式を8月6日に挙行した。

 被人類史上最初の原爆の惨禍を経験したヒロシマは、その悲劇を二度と繰り返させないように、被爆の実相を世界に伝え、憎しみや恐怖から解放された核のない平和な世界の実現のために、様々な取組みを行っている。

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