戦争中は、多くの男の人たちが戦場に集められました。国内に残った女の人たちも軍の工場で働くなど、さまざまな形で戦争に関わっていました。
「赤紙」は戦場への呼び出し状「臨時召集令状」が、赤い用紙だったことから、こう呼ばれていました。
人々は、この「赤紙」がいつくるか、恐れながら暮らしていたのです。まさに運命の赤い紙でした。
サツマイモでつくったイモアメは素ぼくな味がする駄菓子です。いまも売られていますが、当時は貴重なものでした。
戦争中のおやつといえば、サツマイモをふかしたものが多く、お汁こや大福などは特別なことがない限り食べられませんでした。戦争の状況が悪くなるにつれ、船で遠くから品物を運んでくるのがむずかしくなり、一般の家庭では、砂糖が手に入りにくくなったからです。
戦争中も運動会は盛んに行われていました。しかし内容は今とはかなりちがい、戦争でりっぱに死ぬことを教えこむことなどが目的でした。種目も肉弾三勇士 (昭和7年2月上海戦線で爆弾をかかえて敵陣に突入した3人をこう呼んで英雄あつかいしました)のような戦争気分を高めるものが中心で、全体的に遊び気分というより訓練のような雰囲気でした。
また、国民全体が一丸になるために、学校だけでなく村ぐるみ町ぐるみで運動会が行われることがありました。
戦争中、都会の人々は空襲からのがれるために、家庭ごとに地方の親せきをたよってひなんしました。これを「縁故疎開」といいます。
さらに空襲が激しくなってくると、国の決まりで、子どもたちは学校ごとに集団で疎開するようになりました。
きけんがせまってから子ども一人で疎開することもあり、疎開先の学校になじむことができず、苦労する子どもも少なくありませんでした。
また、軍隊のような訓練や農作業などのしごともあり、子どもたちはたいへんな思いをしました。
いま私たちのまわりには、甘くておいしいおかしがたくさんあります。しかし、戦争当時のおかしは、砂糖が配給制で手に入りにくかったため、あまり甘くありませんでした。大人たちは少しでも子どもを喜ばそうと、甘みのある野菜を使うなどの工夫をして、おかしをつくりました。
当時のおやつを再現して、味わってみてはいかがでしょうか。
<つくり方>
戦時中の生活の様子等を小学生などにも理解しやすいように旧(社)日本戦災遺族会の協力の下に用語として編集しました。