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旭川市における戦災の状況(北海道)

1.空襲等の概況

 第七師団が置かれた軍都旭川は、日華事変を境として市政や市民生活のうえに、いろいろな形で戦時体制の影響が強くあらわれるようになり、戦時統制経済のなかで、国策パルプ工業株式会社の旭川工場をはじめ、多くの軍需関係工場が設立された。

 昭和16(1941)年12月8日、わが国はついに国運をかけた太平洋戦争に突入し、青壮年は相次いで戦場に動員され、銃後を守る国民は老若男女を問わず、組織的・系統的な体制のなかで国防の行動に組みいれられた。昭和19(1944)年後半には、一億総武装の閣議決定にもとづいて、婦女子の竹槍訓練が強化されるとともに、国土防衛隊や旭川配給挺身本隊、陸軍演劇奉公隊なども組織された。

 昭和20(1945)年4月に宮城の一部が爆撃で炎上、まもなく本道にもB29が来襲するようになった。

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2.市民生活の状況

 旭川の工業は昭和15(1940)年8月に国策パルプ工業株式会社の旭川工場が落成されたのをはじめ、昭和17(1942)年以降、日本タンニン工業株式会社の旭川工場等多くの軍需関係工場が設立されたが、それは旭川工業にとって大きな転機になったとともに、その後の工業発達を促進する要因となった。

 農業面にあっては、生産確保のために適正小作料を設定して、旭川の水田小作料は18%の減額となり、飼料・肥料の配給統制からはじまった農業生産の統制は、作付けから供出までの全行程が完全な強権拘束のなかにおかれ、農家もまた農業要員の制度によって離農にも制限が加えられた。しかし、相次ぐ応召で農業労働力が不足し、学童までが援農に動員されて、炎天下の農作業に従事しなければならなかった。

 農産物の供出は、食糧から工業原料になる一切の農産物に範囲が拡大されたが、その反面では主食の配給量が一割減となり、市民は常磐公園や神楽岡公園などをはじめ、わずかな空閑地にも食糧となるものを耕作したり、野草やでんぷん粕まで食用にするようになった。食糧ばかりでなく、ほとんどの生活物資の配給統制も厳しさを加えた。

 昭和19(1944)年にはいると東京などが空襲で大きな被害を受け、そのため家を焼かれ、家族を失った避難者の疎開がはじまり、旭川にも他府県からの疎開者が多く来住するようになった。また、防空訓練が頻繁に行われるようになり、各所でバケツの手送りや消火器・突破器使用の訓練をする風景がみられた。道路の側や空地などに防空壕もつくられ、一時は雪の防空壕もできたが、これは実用にならず物笑いとなった。

 当時の服装は、男子は国防色の服に戦闘帽をかぶって巻きゃはんをつけ、女子は筒袖・モンペ姿で防空ズキンをかぶり、在郷軍人の指導で竹槍訓練に参加した。

 こうした戦時色のなかで、市民は町内会が決めた戦争生活実践要項にもとづき、国民貯蓄運動や金供出運動、国債や貯蓄債券の消化、空閑地利用による食糧の確保、戦時節米報国運動、木炭報国運動、軍用馬糧の献納に参加したが、とくに金属類の回収にあっては、旭橋の欄干や寺院の鐘をはじめ、各家庭のかやの釣り環まで供出献納の対象となったのである。

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年7月14日にB29、20機および米機動部隊艦上機延300機が本道の主要都市を空襲、翌15日に旭川・函館・室蘭・帯広・釧路・網走・根室・本別等に大空襲があり、旭川では国策パルプ旭川工場や松岡木材近文工場が襲われて一部炎上し、駅にあった貨車も襲撃され、師団練兵場内の飛行場に着陸していた爆撃機呑竜2機が爆発炎上した。

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4.復興のあゆみ

 戦争が終結し、連合軍の進駐が開始されたころ、自らの生活を守るために立ちあがった国民大衆は、各地で食糧の確保に取り組んだ。本道の代表的なそ菜生産地である旭川も、そ菜の需給関係はきわめて苦しく、市は、再三にわたってそ菜自給圏協議会を開いて出荷の促進をはかり、さらに遠く十勝・北見にまでかけて貯蔵野菜の確保につとめ、ふきやわらびなどの山菜の採集を奨励した。

 食糧ばかりでなく、燃料も衣料品も不足であった。市では石炭会社や燃料組合と協力して、山元や産地・工場に関係者を派遣し、燃料の割当確保に努力をつづけ、昭和21(1946)年5月には市民の総意で燃料対策委員会が結成された。

 戦争中は単なる配給機関の機能しか持たなかった商業者も、敗戦の混乱から立ちあがり、進駐軍に対するみやげ品の公設販売所や買上所を設け、商工会議所を設立して商工復興祭や平和まつりを催し、日用品交換会を開設するなど、その自主的な活動が盛んとなった。

 そうした経過のなかで、NHKのローカル放送の再開や北海日日新聞の発刊があり、旭川読書連盟や旭川小説懇話会の発足などに次いで市立図書館が開館、また、旭川市立産業指導所から独立した旭川窯業指導所が陶器の研究指導を開始した。

 さらに、それまで師団通と呼ばれていた街路を平和通と改称して、すずらん灯も復活した。戦時中に建物を強制疎開させた現在の緑橋通や三条通十五丁目、並びに一線六号には、引揚者などを中心とする青空市場やバラック建のマーケットが軒を並べ、五条通八丁目の角には公共のマーケットも開設され、屋台の酒場もあちこちにできたのである。

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5.次世代への継承

 旭川市では、過去の戦争における旭川関係者の戦没者(軍人、軍属、準軍属、国外において戦争に起因して死亡した方、及び国内における戦災死没者)に対し、全市民が追悼の誠を捧げ、平和への誓いを新たにするため、毎年8月に旭川市戦没者追悼式を開催している。

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