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水戸市における戦災の状況(茨城県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年6月半ばまでに、B29の爆撃によって大都市が焦土となった後、地方の中小都市に対しても徹底した焼夷弾爆撃が行われた。

 水戸は8月2日に空襲を受け、同日には富山・八王子・長岡も被害に遭った。

 水戸市が標的地とされた理由は、アメリカ軍の「戦術飛行作戦報告書」によると、水戸は「常磐線の主要なサービスセンターで、その都市部は隣接する非常に重要な日立工場のための労働力供給源であり、また下請けの中心」であったからと記されている。

 マリアナ基地を飛び立ち、水戸上空に到達した160機に及ぶB29は、午前0時31分に空爆を開始し、同2時16分の終了まで約1時間45分続いた。爆撃の高度は約3,700〜4,600メートルで、投下された爆弾は、約1,145トンにのぼった。この空襲で水戸市街は焦土と化し,死者は300人を上まわった。

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2.空襲等の状況

2-1.水戸空襲の前夜

 水戸へのアメリカ軍による攻撃がはじまったのは,昭和20(1945)年2月のことである。この月の16,17日には,アメリカ機動部隊の艦載機が鹿島灘から侵入して前渡(現,ひたちなか市)や吉田の飛行場等を襲い,戦闘機等が破壊された。このとき迎撃した日本軍2機との間に,水戸上空で空中戦が行われた。以後,県内の軍事施設に対してアメリカ軍の艦載機による攻撃が繰り返し展開されるようになった。

 6月には,茨城県へのB29の空襲が本格化し,日立・土浦等が攻撃された。7月17日の深夜から18日の未明にかけては,日立市及び勝田町がアメリカ軍機動部隊の艦砲射撃にさらされ,その砲弾の一部が水戸の東部の吉沼地区(当時,上大野村)に落下して,全壊・半壊家屋数軒,死者21名を出すという惨事が起きた。砲弾の炸裂音に驚愕した市民のなかには,アメリカ軍の上陸と早合点して,笠間街道や石塚街道へ避難する者もあったといわれている。

 戦禍による被害の増加に対して,茨城県及び水戸市でも,空襲への緊急対策に取り組むようになった。水戸市では,建物強制疎開と並行して,初等科4年生以下の学童を縁故先のある地方へ疎開させることを決め,国民学校ごとに保護者会をひらいて児童の疎開を勧奨した。

 7月31日夜8時半頃,水戸上空に飛来したB29から空襲を予告するビラが投下された。ビラには,5機のB29が焼夷弾を投下している写真が刷られ,その下方に水戸を含む12の空襲予告都市名が丸で囲まれ記されていた。裏面には,「日本国民に告ぐ」と題した文章が書かれ,「数日の内に裏面の都市の内全部,若しくは若干の都市にある軍事施設を米空軍は爆撃」するので,それらの都市から避難するよう勧告していた。投下されたビラは,憲兵・警察の厳しい取締によってほとんどが回収されてしまったが,ビラの内容は市民の間に伝えられ,水戸が数日のうちに空襲されるかもしれないとの噂が広まっていった。そして,このビラ投下の一昼夜後に水戸空襲が起きたのである。

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2-2.水戸空襲

 昭和20(1945)年8月1日,マリアナ基地から167機のB29が水戸上空へ飛び立った。水戸への飛行計画は,グアム島の基地から硫黄列島にそって北上し,房総半島東海岸の岩和田地点(銚子と館山の中間)に上陸,霞ヶ浦の南端を経て水戸へ向かうことになっていた。水戸の防衛体制が弱体であるとの観測を基に,編隊を組まずに各機が個別に爆撃を行うこととし,戦闘機による護衛も不要とされた。

 またアメリカ軍は,水戸について既に地図・レーダー写真等による正確な情報をもっていた。水戸市が,二つの人口密集地帯に分かれており,駅の構内が密集地帯の間の防火帯となるかもしれないとの判断から,爆撃の中心点を西部と東部の二点に定め,それぞれに向け爆撃を行う予定であった。

 飛行計画どおり水戸上空に到達したB29の飛行部隊は,日本時間の8月2日午前0時31分,先導機11機による爆弾の投下を開始した。

 最初に西部に焼夷弾が投下され,多くの証言によれば,茨城師範学校女子部(校地は現在の五軒小学校)が最初の投下点と思われる。東部の最初の投下点は水戸地方専売局(現在のJT水戸工場)であったようである。次いで0時42分から水戸上空に到達した主力機149機が爆撃を行った。当日の水戸の上空は曇りで,レーダー装置が作動せず,目標を正確に確認することが困難であったが,B29部隊は約4,000メートル上空から大量の爆弾を思うままに投下した。

 この空襲に対する水戸の防空体制は無力であった。アメリカ軍の資料によれば,迎撃した日本側の戦闘機は20〜25機だったが,攻撃してきたのは,わずか1機だけとのことであった。吉田の水戸工業学校では,東京防空師団の高射砲六門を据えて応戦したが効果はなかった。消防自動車もポンプが水圧不足で使用不能となり,消火に努めて家を守った人もいたが,ほとんどの市民は,那珂川べり等の市街地の外に逃げ出すしかなかった。

 空襲の被害について「水戸市事務報告書 昭和20年度」には,罹災戸数1万104戸,罹災人員5万605人,死者242人,重傷者144人,軽傷者1149人と記されている。このうち罹災戸数は全市戸数の約90%に,罹災人員は全市人口の約80%に当たる。この空襲により水戸市のほとんどが焦土と化し,水戸市民に忘れえぬ深い傷跡を残した。

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3.次世代への継承

3-1.水戸市の平和への取組み

 水戸市は昭和60年7月1日に,世界から核兵器を廃絶し,人類の恒久平和を目指す意思表示として「核兵器廃絶平和都市宣言」を行った。国際社会に協調と信頼に基づいた関係を築き,世界秩序の維持と安定のために,人類生存の脅威である核兵器の廃絶を世界に向けて宣言した。

 この理念の実現を目指し,水戸市はさまざまな平和行政に取組んでいる。未来の社会を形成する子どもたちに平和の意味を考えてもらう趣旨から,毎年市内の児童生徒を対象に「平和コンクール」を実施している。作文・ポスター・標語の順に行い,毎年多くの児童生徒から個性豊かな作品が寄せられ,優秀な児童生徒については,「水戸市平和大使」に任命して広島に派遣し,平和記念式典に参加している。

 また,水戸空襲の事実を語り継ぎ,戦争の悲惨さと命の尊さを忘れないために,毎年,空襲を受けた8月2日前後の約10日間,水戸空襲に関する資料やパネルの展示会を開催している。多くの市民が足を運び,水戸の先人達が経験した過去の戦争に思いを馳せ,平和についてあらためて考えている。

 この他には,平和に関する資料等の貸し出しや学校における平和学習の支援,市民団体への協力等を行っており,平和な社会に貢献する施策を行っている。

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3-2.水戸空襲に関する資料(水戸市発行)

「水戸空襲戦災誌」

 水戸市では,昭和56年,水戸空襲を体験した市民180人の証言を記録した「水戸空襲戦災誌」を発行した。昭和20(1945)年8月2日未明,夜空から突然,幾千もの焼夷弾が炎の尾を引いて水戸のまちに落ちてきた。戦火を逃げ惑う人々の様子や突然の惨劇に激しく揺れ動く彼らの心情が,まさにその時を生きた証(あかし)として克明に書き記されている。

「水戸市史 下巻(二)」

 政党政治や社会運動が進展する一方,水戸高校の設立や常磐村の合併が行われた大正デモクラシー期(大正2年)から,やがて第二次世界大戦へ突入し,街の大部分が戦禍によって廃墟と化した昭和20(1945)年の終戦までを記述している。水戸空襲については,第6章第9節「水戸空襲と敗戦」の箇所に,空襲の被害や罹災市民の救済等の詳細が記載されている。

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