総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 高崎市における戦災の状況(群馬県)

高崎市における戦災の状況(群馬県)

1.空襲等の概況

 群馬県で本格的な空襲が始まったのは、昭和20年2月10日、飛行場や軍需工場のあった太田市でのことであった。15連隊の所在地であった軍都高崎は、空襲には神経をとがらせ、学校でも「空襲対策」が数え込まれていた。

 東京から鉄道関係をはじめ、多くの官庁が市内の公会堂、図書館、商工会議所などに疎開し、また高崎駅には、首都圏で焼夷弾などで火傷をした市民が列車で送られて来て、多くの医師や看護婦が動員され、その治療に当たっていた。

 このような緊迫した状況の中で、一部地域の家屋強制疎開に着手して間もなく、7月28日アメリカ軍の爆撃を受け、続いて8月6日に艦載機による機銃掃射、終戦前夜の8月14日夜、B29十数機による爆弾、焼夷弾攻撃を受け、多くの被害を出した。

ページトップへ戻る

2.空襲等の状況

 7月28日の最初の爆撃により死者2人、8月6日の機銃掃射により死者3人の被害を受けた。そして8月14日夜、B29十数機が高崎上空に飛来し、暗闇の市内に爆弾、焼夷弾を次々に投下し、各地で火災が発生した。このとき15連隊の高射砲が初めて実弾を込めて発射された。

 このころ、中心市街地の住民の多くがすでに疎開しており、めりめりと燃え上がる家屋にわずかな消防力ではどうすることもできず、連雀町、鞘町のほとんどが焼失した。この一帯は、16日になってもまだくすぶっていたという。

 当時の新開は、市内各所で発生した火災に対し、軍官民一致の果敢な消火活動によって、被害が最小限に食い止められたことや、軍医や衛生兵による負傷者の救護、市による罷災者に対する迅速な救護活動の様子を伝えている。

 この空襲による被害は、死者2人、焼失家屋668戸、罷災者3,140人に及んだ。(被災数字には、出版物によって多少の食い違いが見られるが、ここでは高崎市発行の「高崎市史」を参照)

ページトップへ戻る

3.復興のあゆみ

 終戦の年、昭和20年11月、市内のとある喫茶店の2階に、画廊の若主人、美容院の主人、鉄工場経営者、すし屋、ダンゴ屋、メリヤス屋など約35人が1日の仕事を終えて集まってきた。やがて楽器の音合わせが始まる。「戦後の混乱、殺伐さを除くのは音楽しかない」と集まってきた人々、市民オーケストラ(後の群馬交響楽団)の誕生である。指揮者は、戦争疎開で市内に一時住んでいた山本直忠(直純の父)であった。

 こうして発足した地方アマチュア楽団は、蓄音機はおろかレコードも手に入らない時代に、移動音楽教室で県内の小中学校をくまなく巡回し、生の演奏を子供らの心に植え付けていった。

 昭和36年7月、市民の浄財が集められ、旧高崎連隊跡地に群響のホームグランドとして群馬音楽センターが完成し、文化都市高崎への転機となった。そして、戦災直後の地方都市で生まれた群響は、平成6年日本のオーケストラとしては初めて「プラハの春国際音楽祭」と「ウィーン芸術週間」に同時招待されるまでに成長することになる。

 なお、戦災による高崎市の市街地の被災率は10%程度と、他都市に比べ比較的軽微であった。このことは、逆に戦後の都市基盤整備を遅らせることにもなるが、交通の拠点である高崎市は、昭和23年に始められた10.85haの戦災復興を含め、34地区での土地区画整理、高崎駅周辺をはじめとする17の市街地再開発等の事業を施行済、または施行中であり、交流拠点都市、共生都市を目指して都市整備を進めている。

ページトップへ戻る

4.次世代への継承

 昭和9年、市内観音山に建立された忠霊塔は、第二次世界大戦後は平和塔と呼ばれ、平和の礎となった人々の冥福を祈っている。また、毎年10月に戦没者追悼式が市内で盛大に実施され、平和への願いを新たにしている。

ページトップへ戻る