総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 川越市における戦災の状況(埼玉県)

川越市における戦災の状況(埼玉県)

1.空襲等の概況

 結論から言えば、川越市は空襲を受けなかった。(注)

 ただし、それに類する若干の事件はあったという。昭和20(1945)年6月、連雀町に2個の爆弾が落とされ、爆風で1人が死亡。また翌7月には、東上線川越駅が飛行機から機銃掃射を受け、旅行者が死亡。さらに、同年B29が川越市上空で火を吹き、高階村に落ち、このときの搭乗員は捕虜になったとされている。(「川越市史第4巻近代編」参考)


(注)大きな空襲はなかったとの意味

ページトップへ戻る

2.市民生活の状況

 川越は他の都市と比較して大きく恵まれていた。その理由として、まず第一に戦災を受けなかったので住居だけでなく、家の財産はほとんど無傷に保たれていたことが挙げられる。また第二に周辺が気候と地味に恵まれた農村地帯であり、米麦、さつまいもその他豊富な食料を持っていたこと。この2つの理由により、県内の浦和・大宮・熊谷等の諸都市に比べて、川越は格段に有利な生活条件を持っていたということができる。この有利な生活条件は、他の多くの市が持っていた厳しい市政の条件とはだいぶ異なっていた。したがって終戦直後の川越では、戦時中から引き継がれた消費物資の配給統制を円滑に進めることが、市政の最大の課題であったとされている。(「川越市史第5巻現代編1」参考)

ページトップへ戻る

3.空襲等の状況

 先に述べたとおり、川越は空襲を受けなかった。戦没者は昭和27(1952)年7月現在の資料によると、昭和12(1937)年7月7日以降の事変及び戦争を通じて、1030名で、その遺族は930世帯であり、内、2人以上の戦没者をかかえた世帯は85世帯であったとされている。(「川越市史第5巻現代編1」参考)

ページトップへ戻る

4.復興のあゆみ

 川越市は、戦時下にあっては国策に積極的に協力し、出征軍人の留守家族への配慮に意を注いできたという。また戦後には、戦没者の遺家族に対し他の地域に勝る保護を加えてきたとされている。ちなみに、遺族会の結成は昭和21(1946)年の春にすでに行われ、市の援護は主としてこの遺族会に多額の補助金を出すことによって行われたという。これら補助金は慰霊祭、遺族慰安行事などの費用として、またサンフランシスコ講和後は、軍人恩給の復活、増額の運動費に充てられたとされている。そんな遺族会は、こうした市の資金的援助を得て、団体としてのまとまりは、市の団体中最もよいものと考えられている。市がこのように遺家族援護に意を用いたのは、一つには市の保守的風土からくるものであり、もう一つは市の財政が、戦災も受けず、公共施設も当時としてはかなりできていたために財政的にそれをなしうる余力があったためではないかとされている。(「川越市史第5巻現代編1」参考)

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

 昭和30(1955)年以降、合併によって新川越市になる地域においても慰霊祭は執行された。合併直後の戦没者数は、2582柱となっている。(「川越市史第5巻現代編1」参考)

以後、今日に至るまで慰霊祭は行われ、現在、川越市慰霊塔にて戦没者追悼式が毎年執り行われている。

ページトップへ戻る