昭和20年(1945年)8月14日、この日は熊谷市民にとって永久に忘れることのできない日である。
午後11時30分頃、房総半島の南方より侵入してきた数十機のB29は、空襲警報下(当夜は警戒警報出ず)の熊谷を襲った。最初の2機は偵察のためか、市街地上空を北方へ去り、すぐ引き返して来たとおもうと、すでに佐谷田、久下方面は火に包まれていた。そして高度3000〜5000メートルの上空から、昼をあざむく照明弾とともに、夕立雨のように落下する無数の油脂焼夷弾とエレクトロン焼夷弾によって、市街地は瞬時にして火の海と化した。火に焼かれる者、傷つき倒れる者、逃げまどう人たち、子を探す親、父母を求める子どもなど、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄であった。
当時のアメリカ軍は、熊谷市は、中島飛行機株式会社の飛行機部品(機体及びエンジン)製造の中心地の一つとして考えており、また中島製品の最も重要な分配センターの一つと考えていた。そのことが、熊谷市が空襲を受けた理由のひとつと考えられる。また、軍の施設として、埼玉県所沢市に次ぐ第二の操縦教育の学校となる熊谷飛行学校があった。当初は操縦教育を行っていたが、本土決戦が近づくにつれ飛行部隊として編成換えが行われ、特攻隊操縦者の養成の任務を受けた。敗戦後は米軍の進駐が行われ、米軍が基地から撤退した現在では、航空自衛隊熊谷基地となっている。
多くの消防団員、警防団員は、我が家の焼けるのを見棄て、家族の行方も求めず、全力を尽くして消火につとめ、市民の避難誘導に当たったのである。市街地の3分の2を焼き尽し、死者266名の多きを出した火は、翌15日午後5時ごろようやく消えたが、余燼(よじん)はなお数日にわたってくすぶっていた。街は一面の焼け野原となり、多くの犠牲者が星川に、防空壕の中に、道路や溝に焼け死んでいた。特に星川付近は100名近い焼死者が重なっており、悲惨の極みであった。
そして皮肉にも空襲を受けた翌日終戦となり、埼玉県下唯一の「戦災指定都市」の指定を受けた。あと1日早く戦争が終わっていれば多くの死傷者を出さずに済んだのではないだろうか。
『熊谷市史 通史編』、『新編埼玉県史 資料編20』、『戦前戦中戦後の熊谷の様子』・『戦前戦中戦後の熊谷の様子』
<8月16日の朝>
撮影:松岡信光
<近藤醤油倉庫の壁>
撮影:佐藤虹二
市民の生活状況としては、日常の生活用品である人々の衣服や食糧事情等に厳しさが増した。衣服は、男性はカーキー色の国民服、女性は着物を縫い直して上着ともんぺの上下に分かれている標準服を着るようになった。また、両手を開けておかないといざという時に困るので、雑のうを常備し、三角巾や薬、手ぬぐい、少しばかりの食べ物を入れておいた。食料等生活必需品は切符配給制となり、物が手に入りにくい状況となった。
戦争が激しさを増す頃になると、空からくる敵の攻撃に対し身を守るため、土を盛り上げて作った壕=防空壕が各所で作られるようになった。1〜1.5メートルほど掘った土を俵に詰めた土嚢(どのう)を盛り上げ、街路樹等でカモフラージュしたものである。通行中に攻撃にあった時とっさに身を隠す目的で作られたもので、各家庭、職場でも急場しのぎの防空壕が盛んに作られ、空襲に備えた。また、家々の前には万事に備え、防火水槽、バケツ、火はたきなどが用意された。
熊谷市の軍需産業に関連する施設としては、昭和58(1983)年に廃線となった東武熊谷線がある。これは軍の要請により建設された国策線であり、群馬県太田・小泉地区にある中島飛行機工場に勤務する工員と資材輸送のために要請されたものだった。昭和18(1943)年に第1期工事分、熊谷―妻沼間の営業が開始されたが、第2期工事の妻沼―小泉間は利根川架橋工事を手がけ橋脚が完成されたところで敗戦を迎え、その後工事が再開されることはなかった。
<防空訓練:鎌倉町>
撮影:佐藤虹二
<防空壕造り:旧弥生町>
撮影:石川守彦
地区名 | 罹災世帯数 | 罹災人員 | 死亡者 | 当時の世帯数 |
---|---|---|---|---|
本町 | 782 | 3195 | 95 | 1144 |
元町 | 569 | 3306 | 27 | 911 |
宮町 | 315 | 1277 | 4 | 956 |
荒川 | 135 | 540 | 0 | 668 |
筑波 | 475 | 1999 | 22 | 905 |
銀座 | 395 | 1743 | 22 | 825 |
下石 | 417 | 1793 | 20 | 1036 |
石原 | 358 | 1565 | 30 | 942 |
東熊谷 | 358 | 910 | 14 | 982 |
中西 | 167 | 15 | 0 | 767 |
箱田 | 13 | 47 | 0 | 892 |
佐谷田 | 32 | |||
久下 | ||||
太井 | ||||
万吉 | ||||
その他 | 266 |
注)市街地のみのまとめ
焼失した公共建物等
熊谷市役所、北武蔵地方事務所、市公会堂、熊谷郵便局、熊谷地方裁判所、熊谷土木工営所、専売局熊谷出張所、埼玉県繭検定所、中央農林金庫熊谷支所、県立熊谷高等女学校、市立熊谷西国民学校、県立熊谷醸造試験所、武州銀行熊谷支店、日東製粉熊谷工場、武蔵製麦熊谷工場、富士光機熊谷工場、理研工業(株)熊谷工場、秩父鉄道(株)本社、寺院六箇所等
『熊谷市史 通史編』
団 | 目標設定爆撃 | 爆弾投下機 | 投下時間 | 爆撃高度 | 照準 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
目標名 | 種別 | 最初 | 最終 | 最低 | 最高 | 目視 | レーダー補正 | レーダー | ||
313 | 熊谷市街 | P | 11 | 15:23 | 16:35 | 15200 | 19000 | 1 | - | 10 |
314 | 熊谷市街 | P | 60(1)注)1 | 15:31 | 16:39 | 14000 | 17000 | 9 | 7 | 44 |
熊谷市街 | P | 11(2)注)2 | 15:24 | 15:58 | 14200 | 16100 | 1 | 1 | 9 |
団 | 爆弾の種類 | 信管のセット | 搭載量 | 投下量 | 投棄 | 帰還時搭載 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
発 | トン | 発 | トン | 発 | トン | 発 | トン | |||
313 | AN-M17A1-500#I.C. | 5000ftj上空で散開 | 471 | 117.8 | 358 | 89.0 | 115 | 28.6 | - | - |
314 | M-19-500#I.C. | 5000ftj上空で散開 | 1480 | 296.0 | 1372 | 274.4 | 108 | 21.6 | - | - |
N-M47A2-100#I.B. | 対物接触 | 6791 | 234.1 | 6321 | 218.0 | 459 | 15.8 | - | - | |
AN-M56-4000#L..C. | 瞬間信管 | 6 | 12.0 | 6 | 12.0 | - | - | 11 | 0.3 | |
M-46フォット・フラッシュ | 近接信管 | 28 | 270. | 27 | - | 1 | - | - | - |
この作戦遂行のため、M-47焼夷弾とE-46焼夷集束弾が合せ搭載された。M-47爆弾は目標にぶつかった時爆発する信管を先端につけ、焼夷集束弾は目標の5000フィート上空で(子爆弾が)散らばるように信管がつけられた。全ての爆撃が25フィート等間隔で投下されることになっていた。
『新編埼玉県史 資料編20』
<編隊飛行>
撮影:佐藤虹二
<展示写真>
熊谷市立図書館展示室
空襲を受けた翌8月15日正午、「終戦の詔(みことのり)」が放送されたが、おそらく多くの罹災者はこれを聞くことはなかったであろう。焼失した市役所は旧町役場に移り、臨時復興課を設けて罹災者の救助、焼跡の整理等の活動を始めた。また、市議会議員を中心に「新生熊谷建設同志会」(のちに「熊谷市復興後援会」)を作り、熊谷の復興に懸命の努力を傾けた。
被災者の住宅に関しては、木材の産地が近くにあったこと、建築資材の払い下げの便等があったことなどにより比較的容易に木材が入手できた。また、群馬、秋田県等から木材等を入手することにより応急住宅、簡易住宅等の建設に力を注ぎ、昭和21(1946)年から25(1950)年の間に市営住宅758戸、一般住宅3,416戸を建設した。また、周辺郡市からの多大な寄付金により、多くの戦災者への救護費等に充てることができた。
昭和21(1946)年2月戦災復興院により係官が熊谷に派遣され、熊谷戦災復興計画基本方針が樹立された。方針としては、1.市民生活の向上、2.地方的美観の発揚、3.気候、風土、習慣に即応する等、特色ある都市建設を目標に復興計画を定め、街路計画、公園緑地計画、下水道計画、復興土地区画整理を重点項目として復興計画を進めた。
街路計画では新たに都市計画道路を決定し、都市の骨格として近代的都市にふさわしい道路建設を目指し、土地区画整理事業では罹災面積は約116.4ヘクタールであったが、約165.7ヘクタールの広大な地域を区画整理の区域として申請し、何度かの区域変更を経てこの困難な事業を推進し、近代都市としての復興を遂げた。
『熊谷市史 通史編』
<仮家たつ>
撮影:佐藤虹二
<かたづけ作業>
撮影:佐藤虹二
熊谷市民にとっては忘れることのできないあの悲惨な戦災も、今では市内にはもうその痕跡は見られない。けれども、当時をしのぶことのできるいくつかのものがある。
熊谷仏教会は、星川保勝会と共催で、昭和25(1950)年以来、毎年8月16日の夜、星川で「灯籠流し」を行っている。星川は戦災犠牲者の最も多かった(100名近い)ところで、街の中央部を流れて市民の憩いの場でもある。この日は多くの市民が星川に集い、各自で灯籠を星川に流し、夜遅くまで、いつまでも死者の霊を慰めている。また、昭和50(1975)年8月16日、すなわち戦災30周年を期して、熊谷市戦災慰霊碑建立奉賛会は終戦前夜の空襲で死没した266名の霊を慰め、永遠の平和を祈るため、星川上に「戦災慰霊の女神」像を建立した。この像は、北村西望氏が「熊谷直実像」に続いて、北村氏自らの手によって造られたものである。像の高さは1.725メートルである。この女神像は死没した人の遺族はもちろん、多くの市民からの浄財によってできたものであり、「灯籠流し」の時だけではなく、星川で憩う人々や多くの人々によって崇められている。
『熊谷市史 通史編』
<灯籠流し>
<展示風景>