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川口市における戦災の状況(埼玉県)

1.空襲等の概況

 昭和17(1943)年4月18日、ドゥーリットル中佐の率いるB25爆撃機16機は、正午頃水戸付近から本土上空に侵入し、東京とその周辺及び名古屋・神戸などを爆撃した後、中国大陸へ飛び去った。この空襲により、川口地域にも被害をもたらし、本市では12人の死者を含めて計100人もの死傷者を出したものであった。
(川口市史 通史編下巻)

<ドゥーリットル隊の爆撃を受けた日本ディーゼル>

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2.市民生活の状況

 戦時の市民生活を脅かしたのは、食料・衣類・日用品及び労働力の不足であった。
米・麦などの主食、野菜・肉・魚などの副食品が配給制となり、砂糖・食塩・味噌・醤油なども統制を受け、切符制が実施された。昭和19(1944)年1月の配給栄養量は、熱量1400カロリー、たんぱく質40グラムと生存線をはるかに下回っていた。そこで、ヤミ市などで配給の不足を補うこともあった。

 戦争による兵力動員により、農業・工業の労働力不足は深刻で、生産力の低下につながった。特に鋳物工場の多くが軍需生産に転換させられていた川口の工場からも、多くの労働力が兵力として引き抜かれていき、それは役職労働者にも及び、工場そのものの運営にも支障をきたすようになり、強制疎開をさせられた工場もあった。

  学校においても防空訓練が実施され、中学校では軍事教練が必修となり、また報国農場などがつくられ、学生・女子の労働力が動員された。

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3.復興のあゆみ

 川口を代表する鋳物産業の復興は、戦後急速に進んだ。これは、川口は大きな戦災から免れて資材や設備を温存できたことにより、戦時中の軍需品の生産からいち早く鍋・釜などの日用品や農機具の生産に転換できたからである。その後、朝鮮特需・高度経済成長によって機械部品鋳物生産へと変化していった。

 現在は、これまで培われた造型技術などのノウハウを生かして「ものづくり」の伝統に根ざした産業づくりを促進している。

 交通面では、昭和29(1954)年に京浜東北線西川口駅、昭和48(1973)年に武蔵野線東川口駅が開業し、地域発展に大きく寄与した。さらに平成13(2001)年には長年の念願であった埼玉高速鉄道線が開通し、市内には4駅が開業したところである。

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4.次世代への継承

 平和で豊かな社会を築き、次世代に引き継ぐため、昭和60(1985)年12月市議会定例会において、「川口市平和都市宣言」が全会一致で議決された。

 この実現のために、毎年8月に「川口市平和展」を開催し、戦争の悲惨さと平和の尊さを広く市民にPRしている。また、この平和展に併せ、次世代を担う子供たちを対象に埼玉県東松山市にある「埼玉県平和資料館」の見学会を開催し、感想を絵や作文にしていただき、平和展で展示し好評を得ている。

 市制施行70周年を迎え、川口市は市民との相互信頼によるパートナーシップを基本に、共に考え、共に汗をかきながら「住んで良かった」と誰もが実感できるまちづくりを目指しているところである。

<川口駅西口にあるリリアパーク>

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