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市川市における戦災の状況(千葉県)

1.空襲等の概況

 アジア太平洋戦争期の市川市域は、東京地方の下町工業地帯の拡大及び、鉄道などの交通網の発達や宅地化による人口流入によって、都市化が進んでいた。また、明治18(1885)年の陸軍教導団の駐屯以来終戦まで、主に野砲兵連隊が市内国府台の地に駐屯しており、軍隊の町でもあった。

 市域の空襲の特徴を一言でいえば、アメリカ軍による東京地方への空襲のあおりを受けたということである。飛行経路であった市域上空では、東京方面に比べ被害は人的にも物的にも軽微ではあったが、爆弾や焼夷弾が投下されている。

<市川町及び国府台軍用地の様子>
『船橋及国府台近傍図』(昭和9(1934)年 1/2.5万):市立市川歴史博物館所蔵

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2.空襲等の状況

 市域では、昭和17(1942)年4月18日のアメリカ軍による日本本土初空襲以来、少なくとも、13回の空襲被害を受けている。

 本格的な空襲は、マリアナ諸島からB29長距離爆撃機による東京方面への空襲がはじまった昭和19(1944)年11月24日からであり、それ以後、昭和20(1945)年3月10 日の東京大空襲までの間に、11回の空襲被害に遭っている。この理由は、この時期アメリカ軍は、高い高度から主に航空機工場を爆弾でねらうという空襲を行なっており、東京方面の飛行経路であった市川市上空では、爆弾や焼夷弾の落とし残しや目標が外れたものが投下されている。

 また、東京大空襲以後は、アメリカ軍が低い高度からの精度の高い攻撃方法に変えたため、市川市域での空襲被害は減っている(何度か機銃掃射を受けている)。

 当時の市川市内において最大の物的被害を受けたのは、昭和20(1945)年2月25日午後2時30分頃から3時頃まで行なわれた空襲である。この日アメリカ軍は、焼夷弾で東京市街地を第一目標に空襲を行なったが、悪天候と高い高度からの投下であったため、市域にも多くの焼夷弾や爆弾が投下されている。この空襲で被害が大きかったのが、市街地であった市川新田地域と中山法華経寺門前であり、70戸余りの家屋が全焼している(市立市川歴史博物館平成8年度企画展展示図録『戦時下の市川市域』による)。

 当時の市川市の空襲被害を合計すると、人的被害では、死亡13人、重傷8人であり、物的被外では、全焼116戸、半焼4戸、全壊5戸であった(『千葉県警察史』第二巻による)。

<被災中の市川新田地域と現在の国道14号線>
(昭和20年2月25日 福地家資料)

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3.復興のあゆみ

 終戦後、市川市でも、物資不足など人々の生活は困窮し、総武線市川駅や本八幡駅の周りには闇市が立っていた。また、東京方面からの罹災者が市域へ流入し、市民の負担も増えていた。空襲による被害自体は軽微であったため、昭和9(1934)年の市制施行以来、都市計画法による法整備(用途地域・風致地区の指定や街路網・公園の決定)が進んでいたので、戦争によって途絶えていた都市計画の実現を進めることになる。戦前期策定された都市計画は、現在の市域の有様を規定したといえる。また、国府台の軍隊跡地は、東京都内からの大学の移転など文教地域として生まれ変わった。

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4.次世代への継承

慰霊行事等の状況

 市川市では、毎年10月上旬に、遺族や一般市民を対象に市民会館において、戦没者追悼式が実施されている。
また、同時に平和祈念写真パネル展も開催されている。

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