太平洋戦争末期東京を空襲するB29は、駿河湾方面上空から本土に侵入し目的地に爆弾を投下後、松戸市域上空をへて九十九里浜から海上に離脱するコースをとっていた。爆弾を投下したB29は、日本軍の追撃(迎撃機および高射砲)をかわすために高高度に上昇し高速で離脱を図った。そのため機体を最大限に軽くすること、安全のために爆撃架に残っていた爆弾を捨てたと思われる空襲が松戸市域で確認されている。当時の松戸市域には攻撃目標となるような重要な軍需工場などは無いにも関わらず、空襲の被害が報告されているのは以上の理由からと推測される。
太平洋戦争末期、空襲に備えて松戸市防空本部、松戸市警防団が組織され防空訓練が実施された。防空退避所も松戸市街地に13ヶ所設けられた。松戸駅周辺家屋の疎開がおこなわれた。市内五香六実にあった日本航空機製作所には東葛飾中学校と松戸高等女学校の生徒が勤労奉仕に動員された。【参考文献】「松戸市史」下巻(2)(松戸市 昭和43年)
昭和19年度における松戸市の防空に関する行事は以下のとおりである。
【参考文献】「昭和19年事務報告」(松戸市役所)
年月日 | 事項 | |||||||||
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昭和19(1944)年2月19日 | 松戸警察署において管内町村防空主任会議を開催し、「松戸警察署管内隣組防空訓練実施要綱」を協議 | |||||||||
3月7日 | 松戸中部国民学校において市防空本部員の「非常時対策協議会」を開催、終了後に市内一斉に防空訓練を実施 | |||||||||
4月11日 | 松戸市北部国民学校において市内各防空機関を召集して「緊急防空態勢確立協議会」を開催 | |||||||||
3月27日午前6時 | 厚生大臣の指揮の下で全国的に実施された「応援救護班出動訓練」に松戸班82班が千葉県庁公園に参集し訓練を実施 | |||||||||
5月19日 | 松戸市北部国民学校において「緊急防空教育訓練要綱」に基づく千葉県警防課による防空教育を開催 | |||||||||
6月6日 | 松戸市北部国民学校において「緊急防空訓練打合会」を開催 | |||||||||
6月10日 午前8時30分より午後6時30分まで |
県立松戸高等女学校講堂において千葉県統監部の指導により市内特設防護団・警防団・市防空本部・松戸警察署などの防空関係各機関により防空計画に基づく図上教育訓練を実施 | |||||||||
6月12日 午前10時 |
千葉県統監部を松戸警察署に仮設し訓練防空警報に基づき訓練を実施 | |||||||||
6月13日 午前7時30分 |
市内官庁街大火災の状況下に警防団・消防部総出動にいたる訓練を実施。市立南部小学校において総監より講評を受ける。 | |||||||||
6月23日 午後6時30分から午後8時40分 |
訓練警報発令、「防空医療要員待機参集訓練」を千葉県査察官指導のもと実施。 | |||||||||
7月15日 午前7時30分 |
市内官庁街大火災の状況下に警防団・消防部総出動にいたる訓練を実施。松戸南部小学校において総監より講評を受ける。 | |||||||||
7月16日 午前5時より午前7時 |
松戸市中部国民学校校庭において「防空決戦態勢確立市民総決起大会」を開催。 | |||||||||
7月17日 午後1時 |
松戸市中部国民学校校庭において「防空救護地方講習会」を開催。講師は千葉県医師会会長花岡医師ほか数名。 | |||||||||
7月19日 午前8時30分 |
松戸市警防会館において松戸市防空本部員会議を開催 | |||||||||
8月10日 午前8時・正午 |
防空警報訓用サイレン吹鳴試験及び退避訓練を実施 | |||||||||
9月19日 | 東京都を中心に東部軍司令部指導のもと灯火管制を実施 | |||||||||
11月22日 | 松戸市警防会館において緊急防空本部員会を開催 |
農村地域の国民学校の高学年児童は、農繁期に勤労奉仕に動員され食糧増産の一翼を担った。昭和19年8月4日、東京都の学童疎開第1陣が品川駅を出発した。松戸市域に疎開してきたのは東京市本所区緑国民学校(現、東京都墨田区立緑小学校)の3年男子8名、女子23名、4年男子25名の合計56名である。これに訓導1名、寮母2名、作業員2名を加えた61名が、小金町(昭和29年に松戸市に編入)久保平賀にあった大孝塾で疎開生活をおくった。しかし本土決戦が現実味を帯びてくると彼らは昭和20年5、6月頃、岩手県東磐井郡猿沢村の寺院に再疎開した。
【参考文献】「昭和19年事務報告」(松戸市役所)・「松戸市史」下巻(2)松戸市誌編纂委員会編 松戸市役所
昭和43(1968)年・「東京都の学童疎開」(東京都公文書館編 東京都情報連絡室 平成8(1996)年)
終戦時、松戸市域には本土決戦準備のため多数の軍隊が駐屯していた。兵舎は建設せずに国民学校及び寺院など既存の建物を利用していた。
終戦時本部所在地 | 部隊名 | 編成年月日 | 復員年月日 |
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県立松戸高等女学校 | 第12方面軍直轄 野戦重砲兵第19連隊 (幡12303部隊) |
昭和19年7月8日 | 昭和20年(月日不明) |
松戸市立農商学校 | 第36軍直轄 独立工兵第62大隊 (富士14205部隊) |
昭和19年9月21日 | 昭和20年9月6日 |
小金町国民学校 | 第93師団通信隊 (決6670部隊) |
昭和19年7月6日 | 昭和20年10月10日 |
同 | 同 兵器勤務隊 (決6678部隊) |
昭和19年7月6日 | 昭和20年9月12日 |
松戸市馬橋 | 同 輜重兵第93連隊 (決6671部隊) |
昭和19年7月6日 | 昭和20年9月12日 |
小金町大孝塾 | 同 第4野戦病院 (決6676部隊) |
昭和19年7月6日 | 昭和20年9月12日 |
小金町本土寺 | 同 病馬廠 (決6679部隊) |
昭和19年7月6日 | 昭和20年9月12日 |
また陸軍の航空部隊が、松戸市五香の逓信省松戸高等航空機乗員養成所飛行場(のちに接収)に駐屯し東京を空襲するB29を迎撃していた。
終戦時所在地 | 名称 | 編成年月日 | 復員年月日 |
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松戸市五香 (旧逓信省松戸高等航空機乗員養成所飛行場) |
第10飛行師団 第70戦隊 (天翔8170部隊) |
昭和16年3月5日 満州杏樹で編成 同19年2月23日松戸に移駐 昭和19年8月2日、満州鞍山に移駐 |
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第10飛行師団 第53戦隊 (天翔18426部隊) |
昭和19年3月23日埼玉県所沢で編成 同年9月6日より松戸に移駐 昭和20年6月19日、東葛飾郡風早村(現、沼南町)藤ヶ谷に移駐 |
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第10飛行師団 第18戦隊 (天翔19190部隊) |
昭和19年2月11日東京都調布市で編成柏に移駐後、20年6月19日、松戸に移駐 | 昭和20年8月15日の終戦。復員月日不明 | |
第10飛行師団 第6飛行場大隊 (天翔19192部隊) |
昭和19年3月?編成 | 同上 |
そのほかの陸軍部隊(学校および教育・補充担当部隊)
終戦時所在地 | 名称 | 編成年月日 | 復員年月日 |
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松戸市岩瀬 | 陸軍工兵学校 | 大正8年12月1日 | 昭和20年8月30日 |
松戸市内 | 千葉地区第13特設警備隊 | 昭和20年3月31日? | 昭和20年8月?日 |
戦闘序列及び指揮命令系統は以下のとおり。( )は通称名
第1総軍(東方)-第12方面軍(幡)-第36軍(富士)-第93師団(決)
航空総軍(師)―第1航空隊(燕)―第10飛行師団(天翔)
教育総監部―陸軍工兵学校
東部軍管区司令部―東京師管区司令部―千葉地区司令部―千葉地区第13特設警備隊
【参考文献】第1復員局「第36軍関係資料」、戦後作成・陸軍省「「マ」軍司令部提出陸軍部隊調査表」昭和20年10月(以上、防衛庁防衛研究所図書館所蔵)・「陸軍工兵学校」(工友会 昭和52(1977)年)・「帝都防空戦史」(原田良次 図書出版社 昭和56(1981)年)・「帝国陸軍編制総覧」(外山操・森松俊夫編 芙蓉書房出版 平成5(1993年)「松戸高等航空機乗員養成所(中央航空機乗員養成所) 卒業式・職員総会記念誌」(松戸航養会 平成10(1998)年「日本本土決戦」(別冊歴史読本戦記シリーズ59 新人物往来社 平成14(2002)年)
日時(出典) | 場所 | 死傷者 | 家屋などの損害 | 備考(出典) |
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昭和19年11年27日 午後12時54分 この日の警戒警報11回、空襲警報7回発令(「昭和19年事務報告」) |
高塚新田 | 1名重傷 | 母屋28坪全壊 物置6坪 損害額6000円 |
米軍の攻撃目標は東京中島飛行機武蔵製作所、出撃機数81機(うち東京市街地港湾地区攻撃は50機)目標上空時刻は13時07分から14時25分 (「東京を爆撃せよ」) |
昭和19年12月9日午前3時15分から59分(「昭和19年事務報告」) | 中矢切 | なし | 秦東工業株式会社 工場、倉庫、講堂など5棟400坪全焼 損害額140万円 | 米軍側の記録では当日のB29による夜間爆撃はなし |
昭和19年暮 (「松戸市史」) 12月27日? (「東京を爆撃せよ」) |
大橋から陣ヶ前付近 | なし | 田畑に焼夷弾投下 | 12月27日の米軍の攻撃目標は、東京中島飛行機武蔵製作所、出撃機数72機。目標上空時刻は12時42分から14時3分 (「東京を爆撃せよ」) |
昭和20年2月25日夜 (「松戸市史」) |
日暮 | 3名死亡 | 母屋25坪全壊 物置20坪半壊 |
米軍の攻撃目標は、東京市街地。出撃機数229機。目標上空時刻は13時58分から15時52分(「東京を爆撃せよ」) |
同日0時25分 (「千葉県の歴史」) |
(日暮?) | 9名死亡 3名重傷 1名軽傷 |
全焼1 全壊2 半壊4 |
250キロ級爆弾 |
同日7時20分〜9時20分 (「千葉県の歴史」) |
(不明) | 全焼1 | 銃撃によるもの | |
同日午後 (「松戸市史」) |
河原塚 | 5名死亡 2名重傷 |
被災2戸 | 同上 |
同日14時30分〜15時20分 (「千葉県の歴史」) |
(河原塚?) | 1名重傷 1名軽傷 |
全焼20 半焼1 |
爆弾4発 焼夷弾1520発 |
4月13日〜14日 23時〜2時20分(「千葉県の歴史」) |
2名死亡 3名軽傷 |
半壊2 | 被害は、味方の高射砲弾によるもの (「千葉県の歴史」) 目標は東京赤羽の東京造兵廠周辺 目標上空時刻は、22時57分より2時36分 (「東京を爆撃せよ」) |
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8月13日 | 松戸東部国民学校第3校舎 | なし | 屋根天井を貫通し床でとまる | 銃撃によるもの |
昭和20年2月25日の空襲による被害は「松戸市史」によると「死者8名、重傷2名、家屋全壊1、半壊2、被災2」、「千葉県の歴史」(出典は千葉県立文書館「極秘情報綴 会計課」)によると「死者9名、重傷4名、軽傷2名、家屋全焼22、全壊2、半壊4、半焼2」となっている。
【参考文献】「昭和19年事務報告」(松戸市役所)・「松戸市史」下巻(2)・「百年」(松戸市立東部小学校 昭和48(1973)年)・「東京を爆撃せよ」(早乙女勝元、奥住喜重 三省堂選書157 平成2(1990)年)・「日本空襲の全容」(東方出版 平成7(1995)年)
松戸市内(旧小金町を除く)の戦死者は昭和27(1952)年現在、1,052名、戦没者家族戸数は昭和32(1957)年現在で1,150戸であった。【参考文献】「松戸市史」下巻(2)
終戦にともない旧軍用地および附属建物などの施設は、戦災者や農地開拓組合などに貸与もしくは払下げとなった。史料から確認できる払下げ状況は以下のとおりである。
名称 | 使用先 | 目的 | 摘要 |
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陸軍工兵学校 | 東京工業専門学校 | 校舎 | |
陸軍工兵学校胡録台作業場 | 帰農組合胡録台地区 | 農耕 | 建物を含む |
松戸市大橋陸軍用地 | 大橋実行組合 | 農耕 |
【出典】「国有財産利用処分状況」東部軍管区司令部 昭和20年10月20日(防衛庁防衛研究所図書館所蔵)
用地名 | 開発事業主体 | 総面積 | 開発可能面積 | 既墾地面積 | 入植者 | 備考 |
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陸軍工兵学校八柱演習場 | 農地開発営団 | 130町 | 100町 | 30町 | 94名 | 廠舎19棟 709.5坪 |
松戸飛行場 | 松戸市農業会 | 157町 | 120町 | - | - | - |
【出典】「元軍用地ニ関スル調査」農林省開拓局第2部長宛、千葉県提出 昭和20年12月14日(防衛庁防衛研究所図書館所蔵)