総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 墨田区における戦災の状況(東京都)

墨田区における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 墨田区の前身である本所区と向島区は、関東大震災の後、工場地帯として発展していた。その特質は、中小工業が大部分をしめ、従業員数10人以下の工場は1364工場(昭和10(1935)年11月調査)が立地し、東京都区部全体の20%が集中していた。これらの工場は戦時体制へと組み込まれるなかで、民需生産から軍需生産、兵器生産に転換していった。このように、軍需工場と化した工場で働くため、多くの一般人や学生の動員・徴用が行われた。戦争末期には、軍の管理下におかれた工場で働く工員の多くは、学徒動員のみならず、学童や女子挺身隊であった。 そして、昭和19(1944)年11月29日、本所区で初空襲を受けた後、現在の墨田区である本所区と向島区は、昭和20(1945)年3月10日「東京大空襲」により、多数の犠牲者を出すとともに、市街地は壊滅的な被害を受けた。この戦争により、墨田区は6万人超の死傷者と30万人近い罹災者を出した。

<写真1:焼け野原と化した墨田区>
(残っている手前の丸い建物は旧国技館)

ページトップへ戻る

2.空襲等の状況

 昭和20(1945)年3月10日の「東京大空襲」は、太平洋戦争空襲史上最大の空襲となった。空襲の状況について「東京都戦災誌」は、次のように記述している。

 「3月9日 22時30分警戒警報発令、10日 0時15分空襲警報発令、それから約2時間半に亘って空襲が行われた。来襲機はB29、150機と数えられ、単機あるいは数機づつに分散して低空から波状絨毯(じゅうたん)爆撃を行ったため、多数の火災が発生して、烈風により合流火災となり東京の約4割を焼き甚大な被害を生じた。」

 また、「都政十年史」では、「隅田川をはさんだ下町一帯は全く火の海と化し、最後まで防火にあたろうとした人々は煙にまかれて逃げ道を失い、白鬚橋から吾妻橋にかけて道路といわず川のふちといわず、焼死者の屍がるいるいと横たわるという惨状を現出した」のである。

 この大空襲では、軍事目標だけではなく、非戦闘員を対象とした無差別焼夷弾爆撃が行われたこと、さらに当日は東京下町には強い北風が吹き、被害を大きくしたともいわれる。この空襲による焼失面積は、本所区の96%、向島区の57%が焼失した。本所区と向島区を合わせた現・墨田区の約70%以上が焼失したことになる。

<写真2:防火演習の様子>

ページトップへ戻る

3.復興のあゆみ

 戦争が終わって間もない昭和22(1947)年、本所・向島の両区が一つになり、墨田区が誕生した。戦後の焼け跡にも住宅や工場が建ち、産業のまちとして復興し、昭和28(1953)年には工場数が戦前を上回り、商業面でも飛躍を図った。

 その間、学校などの教育施設、福祉や文化・産業施設などの整備が着々と行われ、今日の墨田区を築くと共に、さらなる飛躍に取り組んでいる。

ページトップへ戻る

4.次世代への継承

 毎年、3月10日には東京都慰霊堂において、東京大空襲などの犠牲者に対して、「春季慰霊大法要」が催され、多くの人々が犠牲者の慰霊に訪れる。
参考文献 「墨田区史・前史」(昭和53(1987)年)  「墨田区史・上」(昭和54(1988)年)

ページトップへ戻る