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渋谷区における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 東京初空襲は、昭和17(1942)年4月18日ノースアメリカンB25六機による低空からの銃爆撃による突然の来襲であったが、この当時はまだ我が国周辺の制海空権は保持されている状態であった。しかし、昭和19(1944)年7月に、マリアナ郡島中のサイパン島が陥落したことで、日本は米軍爆撃機の行動範囲内に入ってしまった。

 その後、昭和19(1944)年11月以降数十回におよぶ爆撃を終戦直前まで受けたが、このうち渋谷区が直接空襲を受けたのは、昭和19(1944)年11月27日に始まって昭和20(1945)年5月29日に到るまで前後12回に及んだ。

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2.市民生活の状況

 昭和12(1937)年7月の日華事変の勃発は日本全体を次第に戦雲に巻き込み、さらに太平洋戦争への突入は悲惨な結果を生ずるに到るが、この影響は本区の人口に明確に現れてくる。昭和10(1935)年度以降の国勢調査における人口推移をみてみると、昭和10年度234,850人、昭和15(1940)年度256、706人、昭和19(1944)年2月239,499人となっている。これを性別についてみてみると、昭和10年度の国勢調査の男女の数をそれぞれ100とすると、女子人口指数は、100から15年度には110、19年にも110となっており、15年度の調査時には上がっているもののその後の変化がない。しかし、男子人口指数は、100から15年度は108と増加しているがその伸びは女子に比べると少なく、19年には93と大きく減少している。これは大規模な軍事施設や軍需工場を持たない本区では、徴用や兵役による大きな人口移動を明確に示している。太平洋戦争の拡大とともに大きな変化を示し、昭和20(1945)年6月における推定人口は46,538人となっている。

 空襲の激しさが増してくると縁故疎開が奨励され、本区では昭和19(1944)年4月1日現在3,254名の児童が縁故疎開したとの記録がある。その後、空襲の本格化により半強制的に疎開が推し進められ、本区では昭和19年8月〜9月にかけて、17校が静岡県へ、5校が富山県へと旅立っている。

 さらに、昭和20(1945)年4月には激しくなる空襲を避け、渋谷区に残っている児童の第二次集団疎開が行われ、22校が富山県へと向った。また、静岡県に疎開していた学童は、空襲の危険が出てきたため昭和20(1945)年6月に青森県へと再疎開している。この疎開が縁となり、富山県小杉町の金山小学校と渋谷区立猿楽小学校の交流が生まれ、今では両自治体の交流へと発展している。

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3.空襲等の状況

 渋谷区が直接受けた空襲の中でも昭和20(1945)年5月24日から25日にかけての空襲が、最大規模の被害であった。

 24日1時36分空襲警報発令、3時50分解除。その間B29約250機が東京の残存地区の西部方面に波状爆撃を行った。濃密な焼夷弾投下によって広範囲に多数の火災が発生、疾風が起こって火災は合流し、大被害が生じた。区内の大部分が被災し、この日の爆撃はこれまでの内最大の規模となった。渋谷区でも消防庁調査によれば、全焼家屋8,855戸、死者20名、重傷者240名、罹災者31,557名に達した。

 翌25日22時22分空襲警報発令、26日1時解除。房総半島および駿河湾からB29二百数十機が東京上空に侵入し、低空からの少数機の編隊をもって焼夷弾攻撃を行なった。これが折からの強風によって一大火流を巻き起こし、残存東京市街の大部分を焼き尽くした。渋谷区の被害は、全焼家屋28,615戸、死者900名、重軽傷者3,860名、罹災者116,377名という莫大な被害を受け、前日の被害を大幅に上回るものであった。こうした空襲によって、区内の国民学校(小学校)のほとんどを含め、本区の約77%が焼き尽くされ瓦礫の街と化した。

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4.復興のあゆみ

 昭和20(1945)年8月15日終戦をむかえ、平和な日常生活が戻ってくるとともに瓦礫と化した街の復興と食糧難を伴う戦後の幕開けでもあった。

 戦災の片付けに始まり粗末とはいえバラック建ての住居が日に日に増えていく光景は、暗い時代から戦後の開放的な時代への移行を実感させるものであった。

 しかし、戦時中の配給制度は混乱をきたし極度のインフレと物不足から、空いている土地を見つけては畑や家庭菜園を作り困窮生活に耐える日々であった。

 自家周辺の土地を耕し新鮮な野菜を求める家庭菜園は昭和24(1949)年にはほぼ全区に散在し、その前年には家庭菜園組合が結成されるほどであった。
終戦直後の昭和20(1945)年9月には占領軍進駐による土地・建物の接収が始まった。旧代々木練兵場(ワシントンハイツ)、旧海軍技術研究所(エビスキャンプ)などがその対象となった。

 一面焼け野原と化した渋谷区の中でもいち早くヤミ市ができ、特に渋谷駅周辺の一大ヤミ市は急激な活況を呈してきた。その後、ヤミ市は復興マーケットと名を改め再出発するなど着実に新しい街づくりへ進んでいった。こうした中、連合国軍の指示により渋谷駅周辺の露天商は閉鎖をせまられ、転業の貸付金を資本に他の場所へ移動するもの出た。また、残存者は振興会を結成し、昭和32(1957)年の渋谷駅前地下街の完成へとつながっていった。

 戦後の渋谷区の産業の復興は、このようにヤミ市の商業から始まってきたが、昭和24(1949)年には区内の商店数は3,523店となり急速な立ち直りを見せた。昭和25(1950)年11月には商店会連合会が結成され、商業の発展に尽くすことになった。

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5.次世代への継承

 渋谷区では、昭和35(1960)年2月10日に「渋谷区世界連邦都市宣言」を行った。この宣言は、戦争放棄を全世界に提唱し、国連憲章の精神に反する軍事体制を解消して、叡智と友愛に基づく世界の新秩序の実現を強く求めたものである。

 また、民間団体である世界連邦東京都渋谷区連合会との共催事業で、「平和を考えるつどい」においての講演会、戦争、空襲に関する写真パネル展・資料展や、実際の空襲体験者による語り部など、戦争の悲惨さや平和の大切さ尊さを区民と共に考える事業を行っている。

 そして、平成14(2002)年9月には、「平和・国際都市渋谷の日条例」を制定した。これは、太平洋戦争により貴い人命と財産を失ったという悲劇を忘れることなく、区と区民相互の連携と協働による発展を目指していくという高い自治意識をもって21世紀を展望し施行したものである。条例の下に、平和・国際都市渋谷の日事業推進協議会を発足し、区民の自主的な参加の促進及び区民団体との連携を図り、平和・国際・文化意識を高揚させるための記念行事及び啓発事業を検討し、実施している。

 また、毎年5月渋谷区戦没者遺族会の主催により、「渋谷区戦没者慰霊追悼式」を行っている。
(注)年月日、数値等については、「渋谷区史」、「図説渋谷区史」からの出典によります。

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