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北区における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 北区域は、明治20(1887)年の工兵隊赤羽移転以降、陸軍被服倉庫の建設(後に、本廠機能が転入)、板橋火薬製造所王子工場の設置など、軍の兵舎や倉庫、工場などが次々と転入・拡張され、こうした軍関連施設は、区域のうちに広大な面積を占めるとともに、1930年代には、北区域は重化学工業中心の工業地域として発展していた。このように、多くの軍事施設や軍需工場が存在していた北区域は、「軍都」とも称されており、米軍の無差別都市爆撃の猛威に見舞われることになる。東京への最初の空襲は、昭和17(1942)年4月の小規模なもので、北区域にも被害があった。

 東京への本格的な空襲は、サイパン陥落後の昭和19(1944)年11月から始まったが、当初、北区域は空爆の対象にならなかった。しかし、昭和19(1944)年12月に、はじめて空襲を受け、以降計12回にわたり被害を生じ、500人を超える死者を出した。

<北区戦災区域図>
(昭和63年3月作成)

<終戦時の旧軍用地>(「北区史」から)
「北区における旧軍の施設調査報告」をもとに「新修北区史」を参照して作成

<防火演習>
(写真提供:山野井静代氏)

<防諜週間実施>
(「王子区隣組回報」昭和17(1942)年7月)
(清水吉一氏所蔵)

<金属類非常回収>
(「王子区隣組回報」昭和18(1943)年7月(清水吉一氏所蔵)

<米軍撒布ビラ>
(今井豊子氏所蔵)

<関口五郎氏画:清水喜蔵氏所蔵>
昭和20(1945)年4月14日未明、堀船国民学校はB29爆撃機による焼夷弾爆撃により校舎全焼となる

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2.市民生活の状況

 昭和12(1937)年にはいると、日常生活のなかにも戦争の影が徐々に忍び寄ってきた。日中戦争勃発以降は物資の不足が始まり、物資の統制が強められ、日常生活のすみずみまで、戦争が影を落とし始めた。戦況の推移に伴い、昭和19(1944)年1月から強制疎開が開始され、8月には学童疎開が開始された・・・・・

 昭和12(1937)年にはいると、日常生活のなかにも戦争の影が徐々に忍び寄ってきた。6月には、王子区防護団が女性の参加をえて防空演習を行ったり、上十条の商業学校生の市街戦演習が行われている。また、在満州の将兵に送る慰問袋の募集や慰問状の発送が始まり、戦争がいよいよ身近なものとなってきた。日中戦争勃発直後には、軍用機献納のための募金活動が始まり、王子駅前では、小学生などが千人針を始めている。太平洋戦争が始まる昭和16(1941)年以降になると、このような光景は日常的となり、それへの参加や協力も義務化していった。

 日中戦争の拡大に伴い戦死者の数も増加した。北区域出身の戦死者は、昭和12(1937)年9月に初めて新聞紙上に報じられ、これ以降、連日のように戦死者の記事が掲載された。戦死者が増加するなか、各地で合同区民葬が開催されるようになり、王子区では昭和13(1938)年9月、滝野川区では昭和14(1939)年3月に、最初の合同区民葬が開催されている。以後、戦死者の記事や区民葬の開催も日常的になっていった。

 日中戦争勃発以降、物資の不足が始まり、物価が急騰した。衣料品、食糧はもとより、値上げは家賃にまで及んだ。昭和13(1938)年7月の物価指数は、1年前と比べて22.7%上昇した。昭和13(1938)年5月からはガソリンが切符制となり、燃料の不足を補うために、木炭バスが登場した。7月には木綿製品の製造、販売が禁止され、8月には麻製品と木炭の公定価格が告示された。昭和14(1939)年3月には、食料品、金属製品、絹製品などの公定価格が決められた。9月には物資価格の固定化が命じられ、10月には賃金引き上げ禁止が通達された。こうして、日常生活のすみずみまで、戦争が影を落としていったのである。

 また、物資の統制もさらに強められ、昭和13(1938)年からは、物資動員計画により鉄の使用が制限され、昭和14(1939)年には鉄製火鉢や公園の鉄柵などの回収が始まった。昭和15(1940)年6月、砂糖とマッチの切符制が開始され、以降次々に日用品に切符制が実施された。昭和16(1941)年には、米の通帳制が開始され、あらゆる生活必需品が、配給、統制を受けることとなった。

 この間、昭和14(1939)年には西日本や朝鮮半島が不作にみまわれ、米穀の不足が起こった。米穀不足は空き地等での家庭菜園を盛んにし、北区域でも、空き地や庭などで野菜類が栽培された。戦争が激化し食糧不足が激しくなると、こうした家庭菜園は次第に増加した。

 戦時下の人々の暮らしを、昭和17(1942)年以降に王子区から発行された町会・隣組の回覧板で見てみる。戦時体制下では町会・隣組が生活の基盤であり、回覧板から当時の人々の生活をよく知ることができる。7月には、13日から19日まで1週間の「防諜週間」実施の回覧板が回されている。この回覧は、「スパイ間諜ヲ防ギマセウ」という標語に加えて、「国民学校児童防諜作品展覧会」の案内と、「二百三十億貯蓄」の呼びかけを載せている。いずれも、日常生活の中で戦争体制が表現されたものである。また、昭和18(1943)年7月には、「応召の心で出そう鉄と銅」と金属類非常回収の回覧板が回された。回収品には名札を付けさせられ、金属回収は、世帯ごとの戦争協力の姿勢について、隣組のチェックの手段となった。戦争協力は、銃後の人々にとっての戦争参加であった。

 昭和12(1937)年の防空法の施行と同時に防護団の編成が進んだ。一方、家庭防火群が組織され、防護団が警防団に改組されてからは隣組防火群となった。非常事態や空襲を想定した組織が、日常生活の中に位置づけられた。以降、防火訓練が頻繁に実施され、焼夷弾消火を中心に訓練した。また、消火のためには水が必要であるが、水道は空襲などによって使用不可能になる可能性があった。そこで、水資源確保のため、井戸の保存と復活の運動が開始され、区内にも井戸を復活させるところがでてきた。

 昭和19(1944)年1月から強制疎開が開始され、軍需工場の周辺が疎開対象となった。王子区の疎開対象は都内の他の区と比較しても大変広く、これは、軍都とも称された王子区の性格によるものであった。強制疎開に対しては、区民は希望や反対を表明することはできず、戦争遂行のために受け入れざるをえなかった。この結果、昭和19(1944)年2月から昭和20(1945)年5月にかけて、北区域の人口は半減している。また、国民学校の3年生以上の児童に対する強制疎開、いわゆる学童疎開が昭和19(1944)年8月に開始された。北区域の学童は、群馬県下に疎開をし、温泉旅館や寺院等を宿舎とした。疎開先での集団生活は、大半は食糧不足との戦いであった。当時滝野川第七国民学校五年生として、四万温泉に疎開をした児童の日記から、児童の当時の生活を見てみる。8月23日疎開先に到着し、「温泉にはいり、寝床にはいった。皆めずらしくて、さわいでいたのでなかなか眠れなかった。こんなことを一年もくりかえすのかと思うとかなしくなって声をあげて泣いた」と、到着の晩からすでに激しい不安に襲われている。朝六時起床、朝食、勉強という日々を送っているが、ときには「はっと目がさめた。まだみんなねている。でも外は明るい。家にいたら今ごろ眠っているだろうと思うと涙がぽろぽろと流れてきた」と、家のことを思っている。9月14日には東京へ行ってきた教師から、東京の土産話を聞いて、「とてもおもしろかった」と特記しており、故郷東京への思いがにじんでいる。10月4日の食事は、「朝、ジャガイモのおつけ。昼、カボチャのにつけ、福神漬。おやつ、ナシ三切れとおにぎり。晩、カボチャのおつゆ」であり、疎開開始から2か月後にすぎないにもかかわらず、ほとんど動物性のものを食べていないことがわかる。

 また、昭和20(1945)年4月の空襲は、甚大な被害を与えたが、人々は、防空壕などを改造して、半地下式の住居とするなどして生活を続けた。空襲後の生活について、王子区豊島三丁目町会長が、「焼跡でカボチャ作り」という手記のなかで、焼け跡の生活を次のように描いている

 「幸い水は水道が出たので、毎日毎日五右衛門風呂で湯をわかし、皆様お風呂がわきましたからとメガホンで知らせると、入りに来た。最初のうちは気が張っていたせいか、さほどに不自由も感じなかったが、日がたつにつれて不自由が多いのか、50世帯の残留組も、一人へり二人行き、2カ月後には30世帯位になってしまった。私は残留者に収入の道を考え、日産化学の焼跡整理を会社から請け負い、共同事業として働いてもらった。食糧不足をおぎなうために、足立区の農協から、カボチャの種をもらい焼跡にまかせた。更に荒川河川敷を1万5千坪開耕の許可をとり、家庭農園に開放した。幸い焼跡のカボチャはよく実り、河川敷農園は、ジャガイモ、ピーナツ、大根、むぎ、なす、キュウリ、トマト等あらゆるものがよくとれた。農園を始めてからは、転入者も多くなり、1年後には250世帯程の人が住むようになった。」

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3.空襲等の状況

 北区域は、昭和20(1945)年2月、大規模な空襲を受け、最初の死者を出した。

 最大の被害を受けたのは、4月13日夜から14日未明にかけての空襲で、200人以上が死亡した。これらを含め、死者を出すほどの大きな空襲を7回受け、500人以上の死者を出した。

 北区域には、赤羽、志茂、十条等にかけて軍需工場や軍事施設があったが、当初は空爆の対象にされずに済んだ。

 北区域に対する最初の大規模な空襲は、昭和20(1945)年2月19日午後2時40分からのもので、王子区豊島地区にかなりの被害を受けた。『新修北区史』は全壊60戸、半壊66戸、焼失戸数99戸、死者29人、罹災者は1128戸としている。さらに2月25日午後2時すぎにも空襲を受け、滝野川区で死者1人を出した。3月4日の空襲でも、滝野川区で死者14人の被害を受けた。3月10日の東京大空襲でも、余波を受け、30人が罹災し、14戸が焼失したほか、荒川区等からの罹災者を寺などで保護した。

 4月12日にも空襲があったが、翌13日夜から14日未明にかけての空襲は、北区域最大規模のもので、王子・滝野川両区の広い範囲にわたって甚大な被害が出た。200人以上の死者、800人以上の負傷者を出した。王子区では、区役所や陸軍兵器補給廠等の官公署、王子製紙や日本フェルト等の民間工場が焼失した。滝野川区では、低地部で大きな被害を受けた。

 この空襲の状況を「下十条国民学校建物焼失顛末書」で見ると、下十条国民学校の被災の状況は以下のようであった。4月13日午後10時40分の警戒警報に続き、空襲警報が発令され、間もなく王子区の低地南方から荒川筋へ焼夷弾が投下された。校長以下の特設防護団員が詔書を背負い、重要書類を持ち出して防空壕の中に埋め、校内を点検した。すでに堀船、王子、東十条方面は燃え上がっており、14日午前0時30分には通学区域内の岸町に数百発の焼夷弾が投下された。その後、午前1時をまわって、学校内にも焼夷弾が投下され、そのうち消火が間に合わなかった理科室から燃え上がって、ついに校舎は全焼した。周辺は火の海であり、校庭には、周辺から避難してきた人々が続々と押し寄せた。

 また、この時期には、学童疎開をしていた国民学校六年生の児童が、卒業式、進学のために帰京しており、そのような中での空襲であった。この空襲で隣組の防空群長であった父を失った子どもが、その体験を「お父さんは殺された」と題して書き記している。

 「昭和20年4月13日の夜、9時頃だっただろうか、姉弟3人、枕を並べて、床についてまもなく、空襲警報が発令された。その頃、隣組の防空群長だった父は、その日、会社が非番で家にいた。」姉弟3人と母親は、非常持ち出しのリュックサックと頭巾を持ち、防空壕の中に入ったが、父親は近所の見回りに家を飛び出していった。防空壕の中で時間が過ぎるうち、「一時静まりかけた飛行機の爆音と高射砲弾の炸裂音とが入り交じったそうぞうしさが、再び、辺りを包みだして間もなく、父が壕の戸を激しくたたいて、『早く逃げろ。早く逃げろ、近くまで火が迫ってきた!!』の声に私達が夢中で壕の暗がりから飛び出した、その時、『あっ』という声を出すか出さないかに低空を飛んでいた敵機から爆弾らしいものが落とされた。『伏せろ、伏せろ』の声が四方八方からした。『ドドーン』という腹の底に響く音と身体中に電流でもかけられたような異様なしびれを感じて、一瞬、棒立ちになった私達の上に追い打ちをかけるような、バラ、バラ、と落とされた焼夷弾の雨。あたり一面、もう、紅蓮(ぐれん)の炎というのであろうか、濃いオレンジ色に染まって、その中に前の家の屋根だけが、くっきりと黒い影を表していた」別れた父親の安否が気になり出し探し歩いた。父親は右腕を直撃で失い、運び込まれた医院の待合室で絶命する。「その時には、涙一つ出ることもなく、時間が経つにつれて『ああ、お父さんは殺されたのだ。B29に殺されたのだ』という哀しみが、ふつふつと沸き上がってくるのだった」15日に父親の棺を見送ったが、「父の棺を見送ったすぐ後から、どこの人であろうか、トタン板にのせられ、菰をかぶったなきがらが目を赤く泣きはらした家族であろう4、5人の人達によってかつがれて、とぼとぼと行くのを見て、『今度また、空襲があったら、私達もああいう風になるなあ』と、うつろな目で、その姿を見つづけていた」死は、誰にとってもごく身近なものとなっていた。

 その後、5月25日夜の空襲では、「じゅうたん爆撃」を受け、王子区では883戸が焼失、死者10人を出し、滝野川区では23戸が焼失した。さらに、敗戦まであと5日という、8月10日には、朝からの空襲警報のなか、B29など150機が飛来し、北区域は死者152人、重傷者144人を出した。

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4.復興のあゆみ

 戦争が終わり、地方へ疎開していた人々や戦地から復員してきた人々が戻ってきた。

 しばらくの間は、食糧難や住宅難と戦いながら、敗戦後の生活を始めなければならなかった。昭和22(1947)年3月、王子区、滝野川区両区は統合して、北区が新しく成立し、本格的に戦後復興事業に取り組んでいくことになった。

 北区域は、軍工廠など多くの軍事関連施設を抱えていたため、戦争による被害は大きく、人口の減少も著しかった。王子区の公共施設では、戦災で区役所が焼失し、国民学校も33校中8校が全焼した。このような状況下、王子、滝野川両区ともに、戦時体制の残務処理や罹災者への援護が敗戦後の最大の行政課題であった。罹災者への援護については、昭和20(1945)年10月の王子区会で、区長がかなり詳細に発言している。このなかで区長は、罹災者への救援物資の配給、寒さに向かっての布団の配布などに言及している。救援物資としては、たばこ、パン、ミルク、タオル、石けん、しょうゆ、みそ、米などの日常用品があげられており、これらを町会を通じて即時給与したという。このほかにも、針、糸などは無償で、電球や鍋などは有償で配給したと述べている。また、物資不足のなか、さまざまな工夫が試みられ、防空頭巾の供出を依頼し、布団に仕立て直して、町会を通じて配布したりなどもした。

 食糧難のなか、配給の整備が大きな課題であった。日常の生活必需品については、配給統制が強化されたが、ヤミ物資への流出や凶作による量不足から遅配が続き、人々は足りない分を家庭菜園での栽培、買出しやヤミ物資の購入によって補った。家庭菜園はすでに戦時下から行われていたが、戦後いよいよ盛んになった。買出しでは、都民の多くが近県へ繰り出したが、東北地方への買出しも盛んで、区内の赤羽駅は、買出しの人々と近県からヤミ物資を運び込むカツギ屋の集散地点となっていた。このような赤羽駅の特質により、赤羽の商業地の復興は戦後すぐ始まった。

 また、深刻な物資不足と同時に、焼け出された人々は、住む家がないという切実な問題に直面していた。これらの人々は親戚や知人を頼ったりとさまざまであったが、一刻も早く落ち着ける住まいをと願っていた。人々は当初、数世帯の同居生活や防空壕を改造した壕舎での生活を余儀なくされた。昭和21(1946)年1月の王子区長の「区政一般報告」は、緊急の課題として住宅問題をあげ、対応の現状を述べている。同報告によれば、3月末までに公営住宅280戸を建設する計画があり、すでに130戸が完成していた。また、簡易住宅の建築資材の払下げが計画され、実施されている。住宅対策はその緊急性と、資材の調達が比較的可能であったことから、敗戦直後からの対応が可能であった。

 昭和22(1947)年3月、王子区、滝野川区両区は統合して、北区として新たな出発を遂げるが、北区の成立と同時に、本格的に戦後復興事業に取り組んでいくことになった。住宅問題をはじめ、放置しておくと危険な状態にある道路や橋梁などへの緊急対策など多くの難問を抱えての出発であった。北区域の人口の動向を見ると、昭和20(1945)年11月1日現在の138,301人が、昭和22(1947)年10月1日の戦後最初の国勢調査では、202,585人へと急増している。戦時中に疎開などによって激減していた人口は急速に回復し、住宅不足は激化した。また、戦災により校舎を焼失した小学校への対処など、教育面でも多くの課題に直面した。

 昭和22(1947)年5月に発足した北区議会は、戦災処理と戦後復興について協議、活動する中心的機関として、常任委員会の復興委員会を設置した。7月の議会において、「道路、橋梁、河川下水等に関する陳情書」の都への提出が採択された。趣旨説明では、緊急を要する道路等については都へ陳情して予算を獲得する以外ないこと、戦災者や引揚者用住宅として、旧軍用建物の払下げか借用を大蔵省に申請したい旨が述べられた。

復興委員会はこれ以降も、関係機関に陳情を重ね、翌年に事業は実施された。

 また、住宅問題では、東京都の住宅建設工事の執行委任を受けて、約700戸の応急簡易住宅を建設している。教育面では、小学校の再建、復興のほかに、新制中学校9校の新設にも取り組んだ。しかし、校舎の整備は進まず、罹災を免れた小学校は、罹災した小学校や新設中学校に教室を貸与することとなった。児童の急増も相まって教室不足となり、ほとんどの学校が二部授業を余儀なくされ、学校によっては三部授業も行われていた。

 北区の戦後復興にとって、旧軍用地の解放・利用問題は最大の問題であった。復興委員会においても、旧軍用地・軍用建物の転用に関して、たびたび取り上げられている。北区の総面積に占める旧軍用地の比率は、国有地と民有地を合わせると、約10%にも及び、23区で最大であった。昭和26(1951)年9月のサンフランシスコ講和条約締結を機に、国有地解放運動が活発となり、10月に北区議会は、議員全員による特別委員会「区内国有財産解放促進委員会」を設置し、議会活動として強力に解放運動に取り組む体制をとった。委員会は、国有地の管理当局である大蔵省に頻繁に請願・陳情を行い、国有財産解放に対する北区の熱意を伝えた。こうして、昭和27(1952)年10月には、北区の運動も功を奏してか、約17万平方メートルの旧軍用地が東京都及び北区に払い下げられた。これらの土地は、現在の東京都立飛鳥高等学校、北区立豊島中学校・堀船中学校・梅木小学校などの学校建設や住宅、道路、公園などに利用された。

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5.次世代への継承

 北区は、昭和61(1986)年3月15日に、世界の恒久平和を願い、「平和都市宣言」を制定した。昭和63(1988)年3月には、区民の貴重な戦争体験を綴り、「戦争体験の記録」を発行した。平成3(1991)年からは、8月上旬の一週間を「平和祈念週間」としている。「北区戦没者追悼の集い」などさまざまな催しを実施している。

 北区は、昭和61(1986)年3月15日に、国際平和年を記念し、世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、「平和都市宣言」を制定した。

 昭和63(1988)年3月には、区民の貴重な戦争体験を綴り、戦争の悲惨さや平和の尊さについて後世に語り継ぐため、「戦争体験の記録」を発行した。

 また、平成3(1991)年から8月上旬の一週間を「平和祈念週間」としている。戦災で亡くなられた方々の追悼と、平和への誓いを新たにする「北区戦没者追悼の集い」のほか、「平和展」など平和を願うさまざまな催しを実施している。

平和都市宣言

真の平和と安全を実現することは、私たちの願いであるとともに、人類共通の悲願であります。

私たちは、日本国憲法に掲げられた恒久平和の理念に基づき、平和で自由な共同社会の実現に向けて努力しています。

人間のぬくもりを感じるふるさと、美しい自然をこれから生れ育つこども達に伝えることは、私たちに課せられた大きな責務であります。

私たちは、わが国が非核三原則を堅持することを求めるとともに、心から世界の恒久平和と永遠の繁栄を願いつつ、ここに北区が平和都市であることを宣言します。

 昭和61年3月15日 東京都北区

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