昭和17(1942)年夏、今の「光が丘」の地に成増飛行場が建設されることになった。田柄・土支田・高松の人々は、先祖伝来の水田や、麦・大根・甘薯などの畑を手放すことになったのである。
戦争が激しくなると、ここから飛び立っていった特攻隊の若い人たちの尊い命が大空に散った。
それから三度目の夏が巡ってきて、戦争は終わった。
若い命をささげた人や、先祖伝来の田畑を投げ打った人たちに、報いるものは何もなかった。
昭和22(1947)年、板橋区から独立して練馬区が誕生するとまもなく、飛行場跡とその周辺は占領軍に接収され、軍人家族の宿舎が建設されることになったのである。
そして、その地は米国の第18代大統領グラント将軍の名に因んで「グラントハイツ」と命名された。
この広大な敷地をもつグラントハイツには、飛行場当時燃料や弾薬などを運び込むための鉄道が、東武東上線上板橋駅から引込み線としてあったが、グラントハイツの建設を指揮した司令官ケーシー少将の名をとって、ケーシー線と呼ばれ建設資材の搬送に使われ、その後は、宿舎に居住する米軍家族の生活物資の輸送に使われていた。
こうして戦争の爪痕は形を変えて、のどかな農村練馬の中に忽然として、「シティ・オブ・アメリカ」が現れたのである。
昭和30(1955)年後半になると宿舎に居住する米国軍の人たちも帰国や移転をして、ハイツ内は空洞化してきた。
このころから練馬区では、返還運動が活発になり、昭和48(1973)年 グラントハイツは念願の全面返還となった。
こうして戦時中、成増陸軍飛行場をあとにした「つわものどもの夢のあと」は、幾多の変遷を経て、新しいまち「光が丘」となり、3万人もの人々が暮らす街として発展し、広大な公園も造成された。
<戦前、練馬の農家の暮らし>
(たくあん漬にする練馬大根の日干し風景)
<戦争前の、のどかな田園風景>
(現在の光が丘付近)
<21世紀の新しいまち「光が丘」>
成増陸軍飛行場は、もとの練馬高松町、練馬田柄町、練馬土支田町にまたがる農村地域で、約80世帯の人々が住んでいた。昭和17(1942)年に測量が始まり、翌年の昭和18(1943)年春に住民の立ち退きがあり、その夏8月に工事に着手し、4か月後の12月には使用を開始していた。
また飛行場の周辺には戦闘機を格納する掩体壕や高射砲陣地などが造られた。
<出撃のため整列する特攻隊員>
<成増陸軍飛行場を出撃する戦闘機>
<成増陸軍飛行場建設の地鎮祭>
<終戦となり戦闘機の残骸だけが散らばる成増陸軍飛行場>
終戦後まもなく成増陸軍飛行場に米軍兵士が数台のジープで乗りつけ、まだ残っていた日本の戦闘機を焼き払った。
昭和22年(1927)春頃には、占領軍による飛行場の接収作業がはじまり、総面積1.8km2の敷地に米軍家族宿舎や学校・教会・劇場・売店・将校クラブ・下士官クラブなど730棟もの建築物が建てられた。
このグラントハイツには、米軍家族が1,200人ほど居住していたが、昭和34年(1959)に立川・横田基地への移転が始まった。
このころから、練馬区をはじめとして関係者の返還運動が活発になり、国や東京都との折衝など紆余曲折があり、ようやく、昭和48年(1973)9月に全面返還が実現した。
<グラントハイツ返還・跡地利用運動>
<"ようこそグラントハイツへ"の正門案内看板>
<ケーシー線>
(別名、「啓示線」とも表していた。)
<グラントハイツ全景>
光が丘は、グランドハイツの返還の見込みのついた、昭和47年(1972)年2月の国有財産審議会の答申を受けてから順次計画が立てられて、建設が進み、平成4(1992)年3月に全団地が完成した。人口42,000人を目標とした23区で最大規模の団地である。
この団地を取り囲むように都立公園・近隣公園・児童公園が造られて、緑のネットワークで結ばれ安全で緑あふれるまちが構成されている。このほか、商業施設や病院、図書館・体育館・区民センターなどの公共施設が設置され、地域暖房および給湯が行われている。
また、交通機関は、都営地下鉄大江戸線が平成3(1991)年に、光が丘から順次開通して行き平成12(2000)年12月には、都心の環状部が完成して大変便利になった。
<新しい町「光が丘」上空からの全景>
(上部の緑地は光が丘公園)
<都営地下鉄大江戸線>
<光が丘中心部の商業施設>
<都立「光が丘公園」>
練馬区では、戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み、昭和58(1983)年、世界の恒久平和と、核兵器の廃絶を願って「非核都市宣言」を行った。
平成7(1995)年、戦後50年を迎え、戦争の恐ろしさや悲惨さ、その愚かさを忘れることなく後世に語り継ぎ、未来の平和への礎になることを願って、戦争中に成増飛行場があった光が丘に「平和祈念碑」を建立した。
<練馬区の「平和祈念碑」>
<戦争前の光が丘周辺の地図(昭和15年頃)>
<建設中の成増陸軍飛行場(昭和19(1944)年)>
<終戦後の成増陸軍飛行場(昭和22年)>
<グラントハイツのときの光が丘周辺>
<光が丘周辺>(平成8(1996)年)