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江戸川区における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 東京における最初の空襲は昭和17(1942)年4月18日であった。その後、しばらく小康状態が続いたが、昭和19(1944)年11月24日からB29による爆撃が始まり江戸川区も被害を受けた。江戸川区は昭和20(1945)年8月1日から2日にかけての最後の爆撃まで軽微なものも含めて二十回以上の空襲にあったが、その中で最も被害の大きかったのは、3月10日の空襲であった。

 空襲警報解除までの約2時間半の間に投下された焼夷弾は1,783tといわれ、東京の約4割が一夜にして焼失した。江戸川区内では小松川・平井地区一帯が壊滅的な被害を受け、焦土と化した(右写真)。当時、小松川・平井地区は区内第一の春日町商店街を有する、木造住宅密集地域であったため延焼による被害を大きく受けた。一方、葛西・瑞江・篠崎地区は農村地域であったため、空襲による火災の延焼は比較的拡大せずにすんだ。

 この空襲により、区役所も焼失したため、都立第七高等女学校(現在は都立小松川高等学校)で罹災者の救援業務を開始したが、他区の罹災者も扱ったため毎日、行列ができた。そのような中で、町会の果たした役割も大きく、罹災証明の発行、国民貯金の払出し手続き等、区民一丸となって、救援業務に取り組んだ。

<空襲後の小松川2丁目付近>

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2.市民生活の状況

 各戸全員が責任の分担を決め、防火活動への参加が定められた。児童は集団疎開を強いられ、家族と離れて暮らすことになった。

 下町のような木造家屋密集地域では、空襲、とりわけ焼夷弾に対しては落下後数秒以内に防火処置を講じなければ、現下の消防力だけでは火災の防止が困難であった。そこで、個々の家庭で防火の徹底を図るとともに、隣組防空群が組織され、バケツリレーや火たたき、あるいは油脂焼夷弾の処置等の訓練を受けた。さらに、もんぺ姿に防空頭巾をかぶり、防火用水に水を張り、火はたき、とび口等をそろえて実戦に臨む体制も整えた。そして、ひとたび空襲を受けた時には、戦火を最小限に食い止めようと必死の活動が続けられた。しかし、3月10日のような大空襲ではとうてい力が及ぶべくもなく、甚大な被害がもたらされた。

 戦争が激しさを増すにつれ、児童を戦禍から守り教育を続けるために集団疎開が国策として実施された。江戸川区での疎開先は山形県と決定され、昭和19(1944)年8月から9月下旬まで児童の輸送が行われた。第一次集団疎開児童数は5,118人(『江戸川区の学童疎開』)であり、8地区に分かれて生活することとなった。当時農村地域だった江戸川区は、食糧についてはさして事欠くこともなかったが、疎開先は温泉地が多く、食糧の生産力が乏しかった。児童を引率した元国民学校訓導は「食事は、三食ほとんどおかゆやおじやで、おかずは山菜か、たまに魚が食膳をにぎわす程度であった。篠崎は当時、野菜作りで有名なところだったから、野菜の少ないのには、いささか苦しんだ。」(『江戸川区の学童疎開』)と述べている。また、疎開を体験した児童は「スイカの皮、卵の殻、貝の殻、雑草まで食べさせられた」(『江戸川区史〔第2巻〕』)と当時の食糧難を語っている。

<防空訓練のようす>

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3.空襲等の状況

 死者約800名の犠牲を出した3月10日の大空襲。小松川・平井地区一帯が一夜で焼失し、大きな被害を受けた。

 空襲による最初の被害は、昭和19(1944)年11月24日午後2時15分であった。B29約80機が小編隊に分かれ、都内各所を爆撃し、区内でも死者1名を出した。その後、幾度となく空襲が続いたが、翌年の1月27日にB29が62機、五編隊に分かれて来襲し、爆弾・焼夷弾を投下した。この時、東篠崎町の化学工場で学徒動員として勤労作業中の小岩国民学校の児童多数が投下された爆弾により生埋めになるという惨事があった。

 2月から3月には空襲がますます激烈化し、3月9日から10日未明にかけては最も凄惨をきわめた。江戸川区内では、小松川・平井地区一帯が焼き尽くされ、死者約800名、負傷者約5,800名、全焼家屋約11,000戸、罹災者は約40,000名(『東京都戦災誌』)にのぼった。中川新橋から約100m上流付近での死者が最も多く、「中川新橋の下は死体で川の水が見えなかった」(職員の座談会『昔の江戸川区』)という。

 この3月10日の恐るべき悲劇の原因は、虚をついた深夜、人家スレスレにまで高度を落としての超低空からの無差別爆撃、風速20〜30mにも及ぶ強風、下町特有の木造家屋密集地域であったことが相重なってもたらされたといえる。当日の風の強さを区民の一人が「橋を渡り始めたとたん5歩と歩かぬうちに倒されてしまう。いつもなら5分で行けるのに、その日は30分以上も費やした。」(『江戸川区史〔第3巻〕』)というように、想像を絶するものであった。空襲による最初の被害から終戦までの約8ヶ月間、江戸川区における被害総数は死者878名、負傷者5,955名、全焼家屋11,266戸、罹災者42,027名(『東京都戦災誌』)であった。

<軍需工場への学徒動員>

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4.復興のあゆみ

 江戸川区は転入者の増加や都心に近い立地条件が相まって急成長を遂げた。生きる喜びを実感できる都市を目指し歩み続けている。

 戦災により激減した人口は戦後、都心部からの転入者等により急増し、戦火で焼失した住宅も昭和23(1948)年8月には戦災前の戸数に戻り、復興への道を歩みだした。昭和26(1951)年には今井橋が復旧、幹線道路が次々と整備され交通が一段と発達した。さらに都心に近いという立地条件も相まって、かつての農村地帯も住宅地や商工業地帯へと発展し、各地に工場が設立され、新興商店街も形成されていった。昭和40年代には土地区画整理事業を軸とする、都市基盤整備事業が進められ、首都東方の玄関口にふさわしい近代都市の達成を目指した。

 集団疎開をしていた児童は終戦とともに復帰し、昭和20(1945)年9月から授業が再開されることになった。しかし、戦災により学校が焼失、もしくは一部が破壊されており教育環境はきわめて荒廃していた。このような状況は昭和25(1950)年頃から次第に改善され、昭和31(1956)年度からは区財政のうち、約40%を超える教育費を計上し、その大半を学校建築費にあてて、教育環境の整備を図った。そのことにより、児童は快適な環境で学習できるようになった。現在は教育内容の充実とともに地域教育の充実にも重点を置き、次代を担う人づくりを推進している。

 時代は「もの」から「こころの豊かさ」「生活の質」を大切にするよう変化している。江戸川区は特長である水と緑豊かな自然をさらに生かし、生きる喜びを実感できる都市を目指して、歩み続けている。

<葛西臨海公園>

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5.次世代への継承

 東京大空襲江戸川区犠牲者追悼式と東京大空襲当時の遺品を集めた戦災資料展の同時開催。旧中川の水没者を慰霊する灯篭流し。

 東京大空襲による焼失を免れた「旧江戸川区役所文書庫」が発見されたことを機に、昭和63(1988)年11月「世代を結ぶ平和の像をつくる会」が発足した。平成元(1989)年3月9日同会主催による第1回江戸川区戦災犠牲者追悼式が挙行された。以降、東京都平和の日に制定された3月10日に追悼式が開催され、区内の小・中学生や高校生による平和活動の取り組み報告や「世代を結ぶ平和の像」への献花が行われている。この追悼式には地域住民ら多数が参加し、次世代への継承が行われている。

 同時に追悼式の会場である区民施設の展示ギャラリーでは、平和への願いを後世に伝えるため、東京大空襲当時の遺品を4つのテーマに分け、約250点を展示している。毎回追悼式の前後3〜5日間が開催期間とされ、世代を超えた多数の見学者で賑わっている。

 また、隣接区である江東区と共同して、終戦日である8月15日の直近日曜日に中川(現在は旧中川)で水没した戦災者に対する慰霊を目的とし、灯篭流しが開催されている。

<旧江戸川区役所文書庫>

<世代を結ぶ平和の像>

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