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八王子市における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 昭和19年6月米軍がマリアナ諸島を攻略した後、八王子市は再三小規模な空襲を受けていたが、昭和20年8月2月未明、米軍爆撃機B29による大空襲を受けた。約2時間にわたる空襲で八王子市街地の約80%が焦土となり、近隣の町村でも被害を受けた。この空襲で合計1600トンの焼夷弾が投下された。八王子空襲は3月10日の東京大空襲の総投下量1665トンとその投下面積を比較しても、密度の高い爆撃であったことがわかる。

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2.市民生活の概況

 戦争の進展につれて、相模原等の軍需工場や軍関係施設が急激に拡大し、八王子市は労働力と住宅の供給地となった。

 企業整備により廃業した織物工場の多くは軍需工場の下請に転換したり、軍需工場の疎開先や軍関係物資の倉庫になった。また、学童の集団疎開や一般疎開の受け入れ地になり、昭和20年には、空襲による罹災者の受け入れ先にもなった。

 さらに、中島飛行機地下工場(浅川町)の建設をはじめ周辺部では本土決戦に備えた軍関係施設の設営、軍隊の駐屯なども行われた。

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3.空襲等の状況

 空襲20年7月31日夜と8月1日昼に空襲予告ビラがまかれ、1日午後8時20分に警戒警報が発令された。しかし午後10時頃、川崎・鶴見方面爆撃の情報が入ったため八王子市の警戒は解かれた。2日午前0時45分頃、突然空襲が始まり、万町と由井村小比企の境に最初の爆弾が落とされた。

 波状的攻撃は2時間近く執拗に繰り返され、燃え盛る上に焼夷弾は落とされ、市街地はすべて火の海となり、夜が明けてもまだ燃え続けているところが多くあった。

 67万個の焼夷弾で八王子市街地の80%が焦土と化し、周辺住民を巻き込んだ人的被害は死者396人、負傷者2,000余人で、内重傷者494人といわれる。(「八王子市史」参照)

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4.復興のあゆみ

 復興の意気に燃える市民と関係者の不屈の努力によって、教育施設の建設をはじめ、街路、住宅、商店等の都市復興事業は、徐々にその成果をあげ、昭和20年代後半には朝鮮戦争による特需景気にも大きく刺激され、市勢は戦前を凌ぐまでとなった。

 昭和30年には、横山、元八王子、恩方、川口、加住、由井の6か村を合併し、都下最大の都市となった。

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5.次世代への継承

 昭和40年10月、市内台町に慰霊塔を建立し、戦没、戦災殉難者追悼式を行い、その後毎年追悼式を執行し、遺族関係者が多数参列している。

 また、例年郷土資料館では展示、講演会を実施することによって、次世代へ歴史の継承をはかっている。

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