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立川市における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 大正11(1922)年11月10日、立川(当時は立川村)に陸軍の飛行場が建設され、岐阜県各務ヶ原(かがみがはら)から飛行第五大隊(のちに飛行第五連隊)が移駐してきた。これを契機として立川を含む北多摩地域は、軍都と化していった。

 立川では、陸軍飛行場を中心として、西地区に陸軍航空(こうくう)工廠(こうしょう)、陸軍航空技術研究所、多摩研究所、陸軍航空本部勤務斑、陸軍航空審査本部立川部隊、陸軍航空廠、陸軍気象部立川出張所などの施設が建ち、東地区には陸軍航空技術学校(飛行第五連隊の転出後)が設置されていた。市内にはその他にも、陸軍獣医資材本廠、高射砲陣地、憲兵隊、陸軍病院などが置かれ、多くの軍事施設が整備されていった。

 また、昭和5(1930)年には、飛行場の隣接地に石川島飛行機製作所(のち立川飛行機株式会社)が移転するなど、軍需工場も数多く建てられていた。以上のように軍事施設や軍需工場が集中していた立川は、昭和20(1945)年2月16日以降、13回に及ぶ空襲を受け多くの被害を出した。


<陸軍飛行第五大隊移駐>


<立川飛行場>


<立川空襲空撮>


<立川空襲被災地図>

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2.市民生活の状況

 戦争末期、空襲対策としてとられた施策の一つに疎開がある。通常、疎開というと学童疎開など、人的疎開を指す場合が多いが、疎開には人的疎開のほかにも物的疎開・施設疎開があり、立川でも駅前を中心とした建物を疎開させている。

 航空技術の発達により飛行機は戦争の主役となり、空襲が想定されるようになった。これを受けて昭和12(1937)年4月、防空法が施行され、防空演習や灯火管制が市民生活を変えていった。やがて空襲が現実のものとなると、昭和18(1943)年9月の閣議決定で疎開策の方針が打ち出された。立川では、昭和19(1944)年7月22日の官報によって建物疎開の地区指定が告示された。7月29日の毎日新聞によれば、合計で400戸余りの家屋が対象になり、また該当地域について、8月18日の朝日新聞によると「軍事施設の防衛に伴うもの2箇所(21,100坪)、交通緩和のための立川駅道路拡張(6,100坪)の合計3箇所」と記されている。建物の取り壊しは、学徒の動員や疎開労務挺身隊の協力などもあって9月9日までに終了した。

 余談であるが、現在の立川駅北口駅前広場と北口大通りは、建物疎開が実施された跡を利用して開発されたものである。


<防火訓練No1>


<防火訓練No2>

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3.空襲等の状況

 立川飛行場を中心として多くの軍事施設や軍需工場が集中していた立川は、空襲の標的となった。昭和20(1945)年2月16日以来、13回にわたる空襲を受け多くの犠牲者を出した。なかでも、4月4日の空襲では、富士見町を中心に大きな被害を出しており、山中坂の悲劇もこの時に起きたものである。

立川の空襲犠牲者数

地区
月日
富士見町 柴崎町 錦町 曙町 高松町 砂川町 立川飛行機 合計
2月17日           3 41 44
4月4日 57 7 13 19 38 1 9 144
4月19日 1 1           2
4月24日           25 89 114
4月25日           2   2
7月10日             4 4
8月2日 7 6     1 2 4 20
月日不明 1 1           2
市外で被災             8 8
合計 66 15 13 19 39 33 155 340

注)「立川空襲の記録」調査時の数字にその後の調査で判明した数字。
なお、飛行場内などの軍事施設の被災者は不明なため含まれていない。

 山中坂は富士見町四丁目にある坂で、崖を利用して横穴式の壕が掘られていた。この壕は、もともとは市役所の重要書類を退避させるために掘られたものであったが、使われなくなったので近所の住民が防空壕として利用するようになっていた。

 4月4日は午前1時ころ空襲警報が発令され、立川は2度に渡る空襲に見舞われている。なかでも第2波の空襲は激しく、多くの人々が山中坂の防空壕へ避難していた。このとき、B29が落とした250kg爆弾が防空壕の入口付近に命中、中にいた全員が犠牲となった。犠牲者は42名で、ほとんどが老人や女性、子供という痛ましいものであった。
「なぜ山中坂が被弾したのか?」について、近くに中央線の鉄橋があったので鉄橋を狙った爆弾が逸れたのだという説や、防空壕の入口付近で子供たちが出たり入ったりしていたのを照明弾の光で発見され狙われたという説などが考えられている。

 被災跡地には亡くなった人の霊を慰めるため、遺族の方たちによって戦災供養地蔵尊が建立されている。


<被災直後の山中坂>

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4.復興のあゆみ

 終戦後、立川飛行場は米軍に接収され、米軍が進駐し、立川は基地の街として戦後の第一歩を踏み出すことになった。やがて立川基地で日本人が雇用されるようになり、また、立川駅北口には露店やテント張りの闇市が立ち並んだ。昭和25(1950)年、朝鮮戦争が始まると米兵相手の商売で好景気になった。

<米軍相手の商店>

 その一方で、米兵による市民への暴力や、飛行機の爆音による騒音など基地公害に悩まされていた。昭和30(1955)年、立川基地拡張計画案が通達されると、地元の住民はこれに反対して警察予備隊(機動隊)との激しい衝突が繰り返され、多くの血が流された(砂川闘争)。

<砂川闘争>

 この事態を重く見た防衛庁長官は強制測量の中止を発表し、その後、昭和43(1968)年にはアメリカ空軍司令官によって立川基地滑走路拡張計画の中止が発表された。昭和52(1977)年、立川基地は全面返還され、現在、跡地は国営昭和記念公園やファーレ立川などの市街地が整備され、見事に生まれ変わっている。

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5.次世代への継承

5-1.山中坂の戦災供養地蔵尊・山中坂悲歌歌碑(富士見町五丁目)

 山中坂の防空壕では、昭和20(1945)年4月4日の空襲で42名の方が犠牲になった。地蔵尊は防空壕跡地の祠に祀られている。山中坂悲歌(エレジー)は山中坂の悲劇を叙情的に歌ったもので、平成7(1995)年4月2日に歌碑が建立された。


<山中坂地蔵尊及び歌碑>

5-2.普済寺平和観音(柴崎町四丁目)

 全国の戦死者、戦災殉難者、沖縄で戦死した戦友を供養するため、昭和39(1964)年、当時の住職が建立した。

5-3.普済寺戦災殉難者慰霊碑(柴崎町四丁目)

 昭和20(1945)年4月4日の空襲で引き取り手のなかった犠牲者を埋葬したという場所に、昭和50(1975)年春に建立された。

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