昭和19(1944)年8月にマリアナ諸島が連合軍の支配下となると、日本本土のほぼ全域が米軍のB-29爆撃機の行動半径内に入るようになった。
B-29による空襲は、はじめ飛行場や航空機工場などの軍事目標に対し行われていた。昭和20(1945)年2月10日の群馬県太田の中島飛行機製作所に対する空襲などがその例である。その後作戦方針の転換により、3月10日の東京大空襲から大都市の市街地に対する爆撃が始まり、次いで、6月17日から終戦を迎える8月15日未明にかけて、全国の中小都市の市街地に対する焼夷弾爆撃と、広島・長崎への原爆投下が行われた。
この他にも、硫黄島基地のP-51戦闘機や空母から発進する艦載機による爆撃・機銃掃射、艦艇による艦砲射撃などがあり、全国の400にのぼる市町村が被害を受けた。
そのような中、昭和20(1945)年7月12日深夜、B-29による宇都宮空襲が行われたのである。
日 | 目標となった都市 |
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1日 | 呉・熊本・宇部・下関 |
3日 | 高松・高知・姫路・徳島 |
6日 | 千葉・明石・清水・甲府 |
9日 | 仙台・堺・和歌山・岐阜 |
12日 | 宇都宮・一宮・敦賀・宇和島 |
16日 | 沼津・大分・桑名・平塚 |
19日 | 福井・日立・銚子・岡崎 |
26日 | 松山・徳山・大牟田 |
28日 | 津・青森・一宮・宇治山田・大垣・宇和島 |
昭和6(1931)年に満州事変が起こり、日本は国際連盟を脱退して世界から孤立していく。昭和11(1936)年の二・二六事件により軍部が政治上の発言力を強めると、翌年には日中戦争が始まり、国家総動員法のもとで戦時体制がつくられていった。
陸軍第14師団があることから「軍都」と呼ばれた宇都宮でも、当然のことながら戦時色が濃くなっていく。昭和12(1937)年には関東防空演習があり、これに参加した宇都宮の夜は、初めて灯火管制により黒一色になった。また、昭和15(1940)年に14師団が宇都宮から満州のチチハルへ移駐になると、かわって陸軍第51師団が編制された。翌年には、大政翼賛会宇都宮支部が発足するなど、国力の全てが戦争に向けられていった。
宇都宮では、昭和15(1940)年に米の配給がおこなわれ、砂糖・マッチ・味噌・醤油・衣類・燃料へと拡大されていった。翌年には、銅や鉄などの金属回収が全国にさきがけて行われている。
中国との戦争に行きづまった日本は、昭和15(1940)年に日独伊三国同盟を結び、東南アジアへの侵攻を図っていく。そして米国との交渉も行きづまり、昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争に突入したのである。
宇都宮は戦前に生産都市への転換を図り、中島飛行機宇都宮製作所をはじめ、多くの軍需工場の誘致を進め、軍需生産に力が注がれるようになった。しかし、成年男子の多くが戦場に行っていた戦争末期、これらの軍需生産を支えたのは多くの女性や学生たちであった。
また、軍事施設も次々に造られていく。昭和15(1940)年、旧清原村に宇都宮陸軍飛行学校が発足し、翌年には航空廠を併設した宇都宮陸軍飛行場が完成した。昭和20(1945)年に入り、米軍機による地方都市や工場などをねらった空襲が激化すると、東京湾岸に展開していた高射砲部隊が宇都宮に派遣され、八幡山公園には師団の地下司令部建設が進められた。
<女子児童のなぎなた訓練(西国民学校)>
昭和20(1945)年2月10日、群馬県の中島飛行機太田製作所が米軍のB-29爆撃機部隊の空襲を受けた。この空襲では、となりの足利市にも多量の爆弾が落下し、30人を超える死者が出ている。太田爆撃後のB-29編隊は、宇都宮上空を東に進んで太平洋へ抜けていった。このとき、残っていた爆弾と焼夷弾が落下し、旧平石村の雷電神社付近に大きな穴があいた。この日多くの宇都宮市民が、B-29と空襲の恐ろしさをはじめて目の当たりにしたのである。
宇都宮にある施設を攻撃目標とした空襲は、2月16日の米空母から発進した艦載機によるものが最初であった。これは、宇都宮陸軍飛行場に対するものであったが、翌17日には市街地に近い上空で陸軍戦闘機疾風1機と米軍機3機の空中戦が行われ、多くの市民がこの様子を目撃している。「宇都宮市昭和20年事務報告書」によると、昭和20(1945)年の空襲は13回あったと記されているが、当時の学校日誌や警察、新聞、米軍資料等記録から、現時点でわかっているのは下表のとおりである。
このような、艦載機や長距離戦闘機による飛行場・軍需工場・交通機関への攻撃は、終戦間際まで何度も繰り返された。軍需工場の中には、工場施設を守り生産を続けるため、大谷や長岡に地下工場として一部移転したところもあった。
月日 | 学校日誌や警察、新聞等に見られる記録 | 米軍資料の記録 |
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2月10日 |
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2月16日 |
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2月17日 |
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7月10日 |
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7月12日 |
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7月28日 |
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7月30日 |
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8月13日 |
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7月12日23時19分(米軍資料)、アメリカのB-29爆撃機による宇都宮空襲が開始された。米軍資料には、この空襲の意図、爆撃計画、空襲中の様子、日本側の抵抗、空襲の効果判定などの文書、空襲前後の偵察写真などが記録されている。それによると、この空襲が軍需工場や飛行場など特定の軍事目標ではなく、一般市民の住む市街地(宇都宮市立中央小学校を中心に半径1.2kmの円内)の焼失をねらったものであることがよくわかる。
この空襲で投下されたのは、M47焼夷爆弾・E46収束焼夷弾である。E46は、投下後ある一定の高度で、中から38個のM69焼夷弾が分かれて落下する仕組みであった。深夜の空襲は2時間を越す長時間にわたり、避難と消火活動は困難を極めた。
つぎの朝、市民が目にしたのは、焼け野原になった宇都宮市街地である。現在のJR宇都宮駅から東武宇都宮駅の間はほぼ壊滅状態となり、死亡者数620名以上、負傷者数1128名以上を出すという大きな被害を受けた。この空襲は、町並みと貴重な歴史遺産を焼失させ、市民生活に大きな打撃と混乱を与えたのはもちろん、長期にわたって心身に傷跡を残した。
空襲による人的・物的被害の状況には諸説あるが、平成11(1999)年度から2年にわたって宇都宮市教育委員会が行った調査により、現時点で次のようなことが分かっている。
<県庁方面>
<現オリオン通り付近>
<東武駅方面>
<二荒山神社方面>
宇都宮空襲は、当時の人々にどのように伝えられたのであろうか。「下野新聞」は13日付けで特報を出している。そこには、B-29が140機来襲し、そのうち約70機が宇都宮を爆撃し、鹿沼・真岡にも被害が出たこと、約20機が福島県郡山方面に爆撃を行ったことが報じられている。また、中部日本新聞社東京総局政治部次長だった水谷鋼一氏のいわゆる「水谷メモ」には、極秘情報として「宇都宮・芳賀・上都賀へ70機、茨城中部別動15機、郡山周辺27機」と記録されている。
一方、アメリカ軍の「作戦任務報告書」には「出撃133機中、115機が宇都宮を爆撃」とあり、宇都宮を実際に爆撃したB-29の機数ははっきりと分かっていない。
宇都宮空襲後、宇都宮市が優先して行ったのは、清掃・金属回収・水道施設の復旧・住宅対策の4事業であった。焼け跡整備は市内を5区に分け、町会や隣組によって行われた。また、市内の国民学校10校中6校が焼失していたため、学校の復旧も急務であった。
7月21日、栃木県は知事が本部長となる「栃木県宇都宮市戦災復興本部」を置き、計画的に復興を進めていった。その計画は、市内12箇所の空地帯設置、宇都宮市を戦時住区とする、戦災地に戦時緊急要員を残留させる、残留市民に住宅3000戸を建設するといった、戦争継続を前提とした「戦時都市」の再生が基本であった。
8月に無条件降伏した日本は、アメリカ軍を中心とするGHQによる占領統治下に置かれた。宇都宮に進駐軍がやってきたのは10月であった。戦後の膨れ上がった失業者、猛烈なインフレ、危機的な食糧難の中、宇都宮にとって最大の課題は戦災復興であった。
そのような中、11月には中心市街地のバンバで露天商が軒を並べ、両側には映画館が再建されるなど、復興のスピードは速かったようである。また、宇都宮市の住宅復興を見ると、翌年の1月までに市営・自営含め2285戸の住宅が建てられるなど、他市と比べて目覚しいと見られていたようである。しかし、実際にはバラック住まいや防空壕を一部改善した壕舎住まいが、まだ約2000戸も残った状態であった。
失業者の救済も重要な課題であった。4万人を越える罹災者に加え、復員軍人、軍需工場閉鎖に伴う失業者が街にあふれていた。その数県下で10万人、宇都宮管内でも23000人を数えた。市民生活は困難を極め、小学校での子どもたちの様子も「雨具も無く震えるムシロ小屋、一日わずか一食の学童」と伝えられるなど、衣・食・住が不足していた。
昭和21(1946)年1月、国の戦災復興院が「戦災地復興基本方針」を定め、宇都宮市では、県が主体となって「戦災復興都市計画」が立案された。この年の12月には「復興土地区画整理事業」も着手され、本格的な復興工事が進められ、現在の宇都宮市中心市街地の姿が形作られていった。
戦争体験は、直接の被害者や遺族にとって癒されることのない心の傷である。しかし、これらの体験は、平和を望む多くの人々によって語り継がれてきた。体験者のこのような試みは、口承から文章へとつながり、さまざまな形で次世代へと継承されている。
宇都宮では、高校生が最初に空襲の記録に乗り出した。昭和48(1973)年11月に栃木県立宇都宮高等学校1年5組が文化祭で出展した「宇都宮大空襲」である。担任の坂本教諭が所持していた、空襲の焼け跡から見つけた一本のハサミが発端となり、生徒による史料調査や聞き取り調査により、「ある記録-宇都宮大空襲-」「宇都宮大空襲市民の体験記」にまとめられたのである。
昭和49(1974)年には「宇都宮市戦災を調査する会」が発足し、記録する運動が本格化する。活動の中心は空襲体験の記録と空襲展の開催であった。記録については昭和50(1975)年刊行の「宇都宮空襲・戦災史」「あの日の赤い雨」に結実し、空襲展は昭和48(1973)年に初回が、昭和60(1985)年からは毎年開催されている。この年から会の名称も「宇都宮平和祈念館建設準備会」とし、空襲関係資料の収集・保存・公開のための平和祈念館建設をめざした。さらに、「炎鎮火せず」「二荒山は炎の中に」といった図書の刊行や普及啓発活動も進めてきた。現在も「宇都宮平和祈念館をつくる会」として活動が続いている。
このほかにも各種団体編集の体験記集が出されている。主なものは以下のとおり。
行政機関は記念誌編纂の中で空襲を記録してきた。「宇都宮市六十年誌」「宇都宮市史」「宇都宮市議会史」「栃木県史」などである。しかし、これらは空襲や戦災の実態解明等に主眼を据えるものではなかった。
そのような中、宇都宮市は平成11(1999)年4月、戦災犠牲者への鎮魂の意と市民の平和の尊さに対する意識をさらに醸成することを目指して、戦災記録保存事業に着手した。多くの体験者の理解と協力を得ながら、調査の結果をまとめ「戦災記録保存事業報告書 うつのみやの空襲」を刊行した。
宇都宮空襲に対する鎮魂として、終戦翌年の昭和21(1946)年7月12日、旧清住町の桂林寺で「戦災殉難者追悼法要」が執り行われた。この法要は、以後宇都宮市と宇都宮仏教会の共催で毎年開催されるようになる。
まず、旧熱木町の一向寺第三墓地で無縁仏の供養を行い、次に寺院で仏教会の僧侶が遺族を招いて法要を行うのが慣例であった。なお、空襲時に身元の分からない遺体を引き取り供養を続けた一向寺は、市営北山霊園にその遺骨を移した後も、毎朝無縁仏の供養を続けている。
一個人の鎮魂の念から生み出されたのが大谷平和観音である。戦時中、大谷の地下工場に動員された群馬県出身の上野浪造氏は、戦後も大谷に居住して仏像彫刻を決意したといわれている。戦時中に亡くした2人の弟を含め、多くの戦争犠牲者に対する供養のためである。
昭和23(1948)年の起工式後、大谷観光協会や東京芸術大学飛田教授の協力の下、昭和29(1954)年についに完成し、昭和31(1956)年、日光山輪王寺から僧侶を招き開眼式が行われた。個人の鎮魂の念が地域を揺り動かし、やがて平和の灯火をともした典型的な例である。
宇都宮市には、北山霊園内に「宇都宮市慰霊塔」がある。昭和45(1970)年竣工のこの塔には、日清戦争以来の戦没者、海外引揚死没者、戦災殉難者、公務死亡者が合祀され、塔内には合祀者名簿が収められている。
一向寺墓地に埋葬されていた引き取り手のない遺骨は、昭和40(1965)年頃この霊園内に移され、現在では管理事務所隣に無縁供養塔が建てられている。空襲犠牲者の魂も、そこで安らかに眠っているのである。
※これまでのページの内容は、「戦災記録保存事業報告書 うつのみやの空襲」によるものである。詳しくは本書をご覧いただきたい。