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堺市における戦災の状況(大阪府)

1.空襲等の概況

 太平洋戦争の情勢悪化に伴って、本土に対する空襲も昭和20(1945)年3月の東京大空襲以来次第に熾烈化し、東京等の大都市から中小都市へと拡大していった。

 本市も、隣接する大阪市と軍需生産の上で密接な関係を持ち、機械器具工業、木造船工業など軍需産業が勃興し、一大軍需工業都市となっていたため、また、大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供していたことなどから、昭和20(1945)年3月13日から、6月(2回)、7月(堺大空襲)、8月の五次にわたり空襲(焼夷弾・爆弾・機銃掃射等)を受け、死傷者約3千人、建物の全焼(壊)半焼(壊)は約1万9千戸、罹災者7万人を超える人的、物的に大きな被害を被った。

 なお、7月の堺大空襲で罹災した面積は約22万6千坪に達し、これは市域総面積の1.4%に当たり、旧市域の62%に相当する面積が焦土と化した。
 注)内容・数値等については、堺市史・七十年誌・百年史より

<戦災直後の市街地>

<最近の市街地>

 

<堺市戦災図> (戦災地及び疎開施行地)
旧市域の62%が被災している

 

<第三次空襲(350キロ爆弾)で被災した家屋>

<焼け跡の防空壕での生活>

<大空襲直後の市街地>(白く写っているのが焼け野原になった地域)

 

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2.市民生活の状況

 市民生活も戦争完遂という至上命令の下、完全に拘束され、市民に対する統制は最大限に強化され、市民は勤労報国隊や女子挺身隊に編成され、鉱山・工場に動員されたのを始め、その労力・資力・余暇などの一切を挙げて戦争に協力させられた。しかも、食糧はほとんど全面的に配給制下におかれ、その配給すら満足になされなくなり、衣料・燃料・日用品など欠乏もはなはだしく、娯楽や休息の機会も奪われて、市民は非人間的な耐乏生活を強要され、遂には飢餓状態にさえ陥った。(昭和17(1942)年3月の市会では、水族館のアシカの餌(魚)が「よく売れると思っている間に、その餌が見物人から家庭にまわって」食用にされているという事実が指摘された。)

 児童・生徒は、続々と農村、工場に動員され、果てには学校そのものが軍需工場と化されるに至った。

 昭和19(1944)年に入ると、日本の敗勢はもはや動かしがたく、本土空襲が必至となるに及んで、防空のため大規模な建物疎開に着手した。同年夏から昭和20(1945)年夏にかけて相次いでで実施された疎開により、3,600戸余りの建物が取り壊され、市の街貌は一変し、約12,000人の市民が立ち退くことが余儀なくされた。また昭和20(1945)年春以降には、3,500人余りの児童が親もとを離れ、学童の集団疎開が行われた。

<休閑地耕作>
(食糧不足の深刻化に促されて、学校、公園等の敷地までがすべて菜園化され、主食代用品としてじゃがいも、豆類などが栽培された。)

<学校工場>
(児童・生徒は、工場等に動員され、学校そのものが軍需工場と化される。)

<金属供出>
(戦局の悪化とともに物資供出も一般家庭からの金属類の回収が実施された。)

 

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年3月13日深夜から翌14日未明にかけて、堺市は、B29による初めての空襲を受け、投下された焼夷弾により市街地には大火災が発生し、約200戸が全半焼、4人が死亡した。(第1次空襲)

 3ヵ月後の6月15日朝の焼夷弾による空襲で、市北部工業地帯が猛火に包まれ8人が死亡、400余戸の家が失われた。(第2次空襲)

 続いて11日後の6月26日、矢継ぎ早に第3次空襲を被った。この日白昼、米機は大阪湾上から侵入し、主として350kg爆弾を投下、戎島の三和鉄工所を始め民家の全半壊33戸、死者4人、重軽傷者10人の被害を受ける。(第3次空襲)

第3次空襲からわずか半月後の7月10日午前1時30分ごろ、突如としてB29数機が大阪湾上から堺市南西に侵入、東北方面にかけて斜めに通過しながら焼夷弾の雨を降らし、たちまち大浜、竜神、宿院一帯が猛火に包まれた。これを第1波として約1時間半にわたり、約100機が数機ずつに分かれ、主として油脂および黄燐性の焼夷弾による波状攻撃を加えたことにより、旧市内は完全に火の海と化し、土居川の水さえ熱湯となり、川面に飛び込んだ人々の死体で埋まり、龍神駅付近においても逃げ場を失った数百人の市民が一団となって焼死を遂げた。この空襲で1,860人が死亡し、18,000余の家が焼失、罹災者は7万人にも及ぶ大きな被害を受けた。(第4次空襲)

 1ヵ月後の8月10日午前9時30分ごろ、小型艦載機が堺上空に飛来し、低空より耳原町付近に機銃掃射を加え重傷者1人、軽傷者1人のほか、福助足袋工場、久保田鉄工所および付近の民家の屋根などが被害を被った。(第5次空襲)

堺市空襲被害状況調(市厚生課調査)
空襲 死者 重傷 軽傷 全焼 半焼 全壊 半壊 罹災者数
第1次 4 8 8 20 158 38     196 776
第2次 8 29 28 65 295 136     431 1,325
第3次 4 2 8 14     6 27 33 338
第4次 1,860 223 749 2,832 18,009 437     18,446 70,000
第5次   1 1 2            
合計 1,876 263 794 2,933 18,462 611 6 27 19,106 72,439


<炎を避け市民が飛び込み死亡した土居川>

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4.復興のあゆみ

 5回の空襲で市の中心部を焼き尽くされた堺市では、全国的な混乱と飢餓に加えて深刻な住宅不足となり、市民は食うに米なく、住むに家なしという状態に追い込まれた。

 昭和20(1945)年9月、政府による「罹災都市応急簡易住宅建設要綱」の閣議決定を受けて、いちはやく罹災市民向けの賃貸住宅100戸の建設に着手し、同年11月12日、堺市は戦災都市に指定され、戦災地復興計画基本方針に基づいた復興計画が樹立され、昭和21(1946)年から昭和25(1950)年までの5ヵ年継続事業として、土地区画整理と道路計画を中心とした事業が進められた。

 伝統ある商業と文化の復興は他都市に比べても早く、昭和21(1946)年中ごろには商店が各地に立ち並び、各種文化団体も続出するに至ったものの、復興計画は昭和25(1950)年のジェーン台風の追い討ちを受けたことによる市財政の悪化もあり、容易には進展せず、昭和40(1965)年に事業の完了を見ることとなる。

 この間堺市では、戦後の住宅不足解消のため、市営住宅の建設のほかに、日本住宅公団や府営住宅の誘致を図り、その緩和に努め、全国最初の日本住宅公団団地が建設された金岡団地を始め、中百舌鳥団地、向ヶ丘団地等々の完成、堺臨海工業地帯造成の着手、また、昭和41(1966)年には、泉北ニュータウンの建設着工、翌年に初入居が始まるなど、活気溢れる新生堺市がスタートを切ることとなる。

 以後、平成元(1989)年に市制100周年を迎え、平成8(1996)年には中核市に移行し、平成18(2006)年4月、政令指定都市へ移行するなど「自由都市・堺」へと着実に発展を遂げてきた。

<公団団地完成>

<泉北ニュータウン造成>

 

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5.次世代への継承

 昭和46(1971)年に、大仙公園に戦争で亡くなられた市民(戦没者6,500余人、戦災死没者1,870余人)を悼み、平和なまちづくりを祈念して平和塔を建設した。慰霊行事については、大阪府、大阪市と共同で大阪戦没者追悼式を開催しているほか、市民による慰霊祭などが催されている。

 堺市では、昭和55(1980)年に人権擁護都市を宣言し、昭和58(1983)年に市議会による非核平和都市宣言に関する決議を行い、この二つの宣言趣旨を生かし、戦争の悲惨さ、平和の尊さ、そしてお互いの人権を守ることの大切さを訴え、そして次世代に伝えるために、昭和63(1988)年に市制100周年記念事業の一つとして平和と人権資料室(フェニックス・ホール)を開設する。

 その後、平成6(1994)年7月、堺市教育文化センター内に、堺市立平和と人権資料館(フェニックス・ミュージアム)として移転拡充する。そして、資料館の常設展示や企画展・特別展の開催、また、昭和58(1983)年から毎年8月には「平和と人権展」を開催し、これらを通じて平和に関する情報発信や次世代への継承に努めている。

 情報提供:堺市市民人権局人権部人権推進課

【堺市公式HP】

堺大空襲を知っていますか?(平和の尊さを次世代に)

https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/jinken/jinken/sakaikuusyu.html
 

<堺市立平和と人権資料館>

<平和塔(大仙公園内)>

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