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吹田市における戦災の状況(大阪府)

1.空襲等の概況

1-1.空襲等の概況

 大阪市に隣接する吹田市では、昭和20(1945)年3月4日の米軍による伝単(宣伝ビラ)の撒布以来、都合11回の空襲(伝単撒布を含む)を受けました。空襲被害状況は、死者34人、負傷者112人、全焼全壊が211戸、半焼半壊が98戸とされています。(山内篤編『吹田空襲の記録-大阪空襲と吹田-』)

 空襲被害を受けた場所は、吹田操車場および鉄道施設周辺と、神崎川沿いに点在した軍需工場周辺などがおもな地域でしたが、それ以外にもわずかですが、被害を受けています。これらの空襲被害については、当時吹田警察署長であった西沢与志雄氏の日記に記されています。

1-2.吹田の空襲

吹田の空襲被害状況
  年月日(時刻) 被害地 被害件数
建物 死者 負傷者 罹災者
1 20.3.19
(8時半頃)
泉町2丁目付近 0 0 0 0
2 20.6.7
(11時頃から)
吹田操車場・鉄道工機部・岸部南(前岡製鋼)・原町・片山町・西御旅町・東御旅町・芳野町(神崎川航空精機製作所・昭和化工) 255 28 93 887
3 20.6.15
(8時過ぎから)
吹田2〜4丁目付近・芳野町(神崎川航空精機製作所) 41 2 3 353
4 20.6.26
(8時過ぎから)
JR吹田駅及び駅前付近・阪急吹田駅南側付近 10 0 0 26
5 20.7.9
(正午頃)
山田市場(加藤金属分工場)・摂津市千里丘(加藤金属本社及び工場) 0 1 4 0
6 20.7.19
(10時頃)
昭和町(吹田警察署付近) 0 2 4 0
7 20.7.22
(正午頃から)
吹田操車場・千里山・高浜神社付近・豊津町 1 0 4 0
8 20.7.28
(16時頃から)
吹田操車場 0 1 0 0
9 20.7.30
(正午過ぎから)
山田東4丁目付近 0 0 1 0
10 20.8.1
(9時半頃から)
吹田操車場及び付近の工場 2 0 3 0
    309 34 112 1266
  • 注)この表は、山内篤編『吹田空襲の記録-大阪空襲と吹田-』に掲載された「吹田の空襲被害状況」の表を簡略化したものです。
  • 注)被害地は、現在の地名で表記し、( )内の工場名などは当時の名称で記しました。


<吹田の空襲被害地図>(表と対応)

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2.市民生活の状況

2-1.食料や衣料事情

 戦争が長引き物不足が深刻になると、食料や日用雑貨の配給制が実施されるようになりました。大都市を中心に昭和15年から砂糖・マッチが配給制になり、翌年には米や小麦粉も配給制となりました。吹田市でも食料や衣料の配給制が行われていたことが、「家庭用パン・生饂飩通帳」や 「家庭用砂糖・マッチ回数購入券」などの資料から窺えます。

 「家庭用砂糖・マッチ回数購入券」の注意書きによれば、砂糖の購買量は1か月1人あたり0.5斤とされ、マッチは世帯の人数によって定められていたようです。その後、ほとんどの食料や日用品が切符がないと手に入らず、しかもその量は政府によって制限されていました。配給制の実施は隣組が中心となって進められていました。

<家庭用パン・生饂飩通帳>(吹田市平和祈念資料室蔵)

<家庭用砂糖・マッチ回数購入券>(吹田市平和祈念資料室蔵)

<指定衣料品購入通帳>(吹田市平和祈念資料室蔵)

 

2-2.町内の体制

 日中戦争が長期化するなか、全国民を組織的に戦争体制の中に組み込むことを目的として、吹田市でも隣組が編成されました。「吹田市町会組織体制」をみると、隣保(隣組)は5戸から7戸からなり、市内に約2330の隣保があったことがわかります。隣組は定期的に常会といわれる会合を義務づけられ、その場で国が決定した方針を確認していました。回覧板での伝達や配給制の実施も隣組単位でおこなわれ、戦時体制の中で隣人同士が監視し合うという状況をつくっていたといえるでしょう。

 吹田市の『東旭町々会要覧』によれば、町会の戸数は279戸で23の隣組があったことがわかります。町会の常会(会合)は毎月20日の午後7時半と定められており、隣組の常会は毎月15日までに開催し、月報を町会長まで提出するように義務づけられていたことが記されています。

<吹田市町会組織体制>(吹田市平和祈念資料室蔵)

<『東旭町々会要覧>(吹田市平和祈念資料室蔵)

 

2-3.防空対策

 本土への空襲が激しくなると、人々は常に警戒警報や空襲警報に敏感に対応し、日々の暮らしもより制限されたものとなっていきました。都市の家屋では、空襲の目標とならないために灯火管制が徹底され、電灯におおいをかけ黒いカーテンがひかれ、外に明かりがもれないようにしていました。防空ずきんやヘルメット、防毒マスクなども用意され、家の床下や庭には防空壕が掘られていました。吹田市でも隣組を中心に防空対策がとられ、町内の集会所に架けられていた「空襲警報を示す木札」や「メガホン」などの資料がそのことを物語っています。


<空襲警報を示す木札>(吹田市立博物館寄託資料)

2-4.建物疎開

 建物疎開は空襲の際、焼夷弾による延焼を防ぐために道幅を広くしたり、密集した建物の一部を取り壊して空き地を確保するために行われました。吹田でも旭町商店街をはじめ中心地区一帯で、昭和20年の4月と6月の2回実施されました。西沢日記にはこれら建物疎開に関する記述も多く、強制疎開に対する人々の不満があったこともうかがえます。

 「昭和二十年第三〜第六次 建築疎開関係書類」(大阪府公文書館蔵)には吹田関係の資料も含まれ、昭和20年の8月初旬に計画されていた疎開地区約1000戸が記載されています。青焼きの付図が添えられ、1次疎開・2次疎開そして今回の疎開予定地が図示されています。実際この計画は実施されるまでに終戦をむかえ、まぼろしの計画となりました。


<吹田の建物疎開地図>(山内篤氏作成)

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3.空襲等の状況

3-1.空襲に関する調査

 吹田の空襲については、山内篤編『吹田空襲の記録-大阪空襲と吹田-』に詳しく記されています。。この書は大阪教育大学付属池田中学校教諭の山内氏が、同校の郷土研究部歴史班の活動成果をまとめられたものです。丹念な聞き取り調査に加え、西沢日記や小松警部補の書類綴などの資料も交え、吹田空襲の実態を大阪空襲の中に位置づけながら記述しています。昭和54(1979)年に発行されており、その時点での聞き取り調査は大変貴重です。

3-2.西沢日記

 西沢日記は昭和19(1944)年5月31日から昭和20年12月6日まで吹田警察署長を勤められた西沢与志雄氏が綴った日記です。この日記は吹田市内の空襲被害の状況や建物疎開の実態などを知ることができる貴重な資料で、まさに吹田という地域にとっての戦争を考える好材料といえます。吹田警察署長としての業務日誌的な性格のものでありますが、所々に垣間見える西沢氏の心情も大変興味深いといえます。吹田の空襲をこの西沢日記の記述とともに少し紹介してみましょう。


<西沢日記>(吹田市立博物館寄託資料)

西沢日記 六月七日(木)曇一時雨

・・・次デ空襲トナリ、管内周辺部ニ爆弾、焼夷弾ノ雨降ル。工機部ヨリ発火シ風向ノ関係上一時ハ吹田市中心部へモ波及スルカト危マレタルガ、幸ニ官憲及軍隊ノ協力ニヨリ鎮滅スルコトガ出来タ。発令ヨリ解除ニ至ル迄終始屋上ニ在ツテ対空及着弾状況ニ監視ニ従事ス。今日ハ愈々殉職スルノダト覚悟ヲ定メタ。民衆ハト見ルト蒲団ヲ被リ次々ト逃避シテ行ク。然シ天遂ニ我ヲ祐ケタ。被害ハ被弾ノ割合ニ少サクシテ止マツタ。署長トシテコンナ嬉シイ事ハナイ。署員ノ異状モナイ。重要工場モ無事。・・・

西沢日記の記述では、この6月7日の空襲を「吹田初空襲」と記しています。実際に被害者が出た空襲としてはこの日が最初であり、そして吹田では一番大きな被害にあった日でもありました。(第三次大阪大空襲)吹田操車場周辺や岸部や江坂の工場周辺などへ小型爆弾や焼夷弾が投下され、28名が死亡し、重軽傷者合わせて93名と記録されています。物的被害も全壊35、半壊57、全焼137、半焼26という大きな被害となりました。西沢氏はこの日の空襲を吹田警察署(現在の吹田市勤労者会館の場所)の屋上から眺め、人々が避難していく様子を見つめていたと後に語られています。

西沢日記 六月二十六日(火)晴後曇

・・・本日ハ一機宛分散シテ吹田上空ニ来襲シ吹田駅ニ投弾セリ。過般ノ幹部ノ要望ニ従ヒ屋上ノ監視所ニ立タザリシガ、署内ニテハ却テ不安ヲ覚ユ。・・・本日吹田署管内ニハ諸所ニ爆弾落下シ家屋ノ破壊モ尠カラザリシガ一名ノ死傷無カリシハ全ク奇蹟ト言フモ過言ニアラザルベク、不幸中ノ幸ト痛感ス。

西沢日記の6月26日には、吹田駅とその周辺の空襲の記事があり、後述しますが、この日投下された爆弾が、不発弾として30年以上後の昭和53(1978)年に発見され、新聞紙上をにぎわす事件となりました。

西沢日記 八月一日(水)晴

・・・大阪警戒警報ノ発令アリ而モ未ダ空襲警報ノ発令ナキニ吹田上空ヘP51ノ来襲アリ。操車場、及付近工場、住家ニ被害発生ス。・・・

この日のP51の来襲が吹田での最後の空襲であると記録されています。西沢日記には「吹田空襲第九回」と見出しがつけられており、3月19日の泉町2丁目付近への不発弾投下を空襲に数えていません。また、『吹田空襲の記録-大阪空襲と吹田-』では、3月4日の伝単ビラの投下を空襲と考えているため、都合11回の吹田空襲があったとしています。

吹田の空襲被害状況
  年月日(時刻) 被害地 被害件数
建物 死者 負傷者 罹災者
1 20.3.19
(8時半頃)
泉町2丁目付近 0 0 0 0
2 20.6.7
(11時頃から)
吹田操車場・鉄道工機部・岸部南(前岡製鋼)・原町・片山町・西御旅町・東御旅町・芳野町(神崎川航空精機製作所・昭和化工) 255 28 93 887
3 20.6.15
(8時過ぎから)
吹田2〜4丁目付近・芳野町(神崎川航空精機製作所) 41 2 3 353
4 20.6.26
(8時過ぎから)
JR吹田駅及び駅前付近・阪急吹田駅南側付近 10 0 0 26
5 20.7.9
(正午頃)
山田市場(加藤金属分工場)・摂津市千里丘(加藤金属本社及び工場) 0 1 4 0
6 20.7.19
(10時頃)
昭和町(吹田警察署付近) 0 2 4 0
7 20.7.22
(正午頃から)
吹田操車場・千里山・高浜神社付近・豊津町 1 0 4 0
8 20.7.28
(16時頃から)
吹田操車場 0 1 0 0
9 20.7.30
(正午過ぎから)
山田東4丁目付近 0 0 1 0
10 20.8.1
(9時半頃から)
吹田操車場及び付近の工場 2 0 3 0
合計     309 34 112 1266
  • 注)この表は、山内篤編『吹田空襲の記録-大阪空襲と吹田-』に掲載された「吹田の空襲被害状況」の表を簡略化したものです。
  • 注)被害地は、現在の地名で表記し、( )内の工場名などは当時の名称で記しました。

<吹田の空襲被害地図>(表と対応)

不発弾の処理(1トン爆弾の発見)

 昭和53(1978)年4月と10月の2度、不発弾処理が行われました。朝日町の国鉄吹田駅前再開発ビル建設工事にともなう発見でした。これらの1トン爆弾は、昭和20(1945)年6月26日、B29によって吹田駅周辺に投下されたものであると推測できます。4月13日の不発弾処理は、最も危険な信管抜き取り作業を正午から開始し、万一に備えて半径300メートル以内の約1500世帯の住民を避難させ、東海道線も正午から約40分間不通となりました。新快速や快速など上下39本が運休になり、10,000人以上の足に影響したとされています。


<1トン爆弾の不発弾処理作業>

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4.復興のあゆみ

商店街の復興と街路計画

 戦災による大きな被害を免れた吹田市では、昭和20(1945)年の建物強制疎開の対象となって取り壊された地域のうち、旭町商店街の復興が翌年5月頃から始まりました。バラック建ての仮店舗ではありましたが、秋には徐々に完成していきました。ところが一方では、「生産都市再建整備事業」の対象地域となった旭町道路は「一等一類一号吹田駅前線」という名称で、道路拡張の計画が平行して進められており、10月に政府から承認されました。これ以後、道路の幅員や立ち退きの代替地をめぐって、吹田市と商店街との交渉は難航をきわめ、決着するまでに十数年の歳月がかかりました。

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5.次世代への継承

 吹田市では、毎年、8月上旬に吹田市文化会館「メイシアター」を会場にして、「市民平和のつどい」を開催しております。非核平和資料展をはじめ、戦争体験芝居や平和コンサート、ファミリー映画劇場、こども映画会、こども劇場など盛りだくさんの内容で開催しております。

 また、平和の尊さと戦争の悲惨さを心に刻み、次代を担う子どもたちへ伝えていくため平成4年(1992年)に、「平和祈念資料室」を開室し、市民の皆様から寄贈・寄託いただきました戦前・戦中の国民生活や軍隊に関する資料を常設展示しております。

 平和祈念資料室では、毎月第2、第4土曜日とそれに続く日曜日に平和映画会を開催しております。参加していただいた皆様からは、これからもずっと平和映画会を続けてもらいたいとのお声をいただき、リピーターの方も多数、来場していただいております。秋には期間として2週間程度ですが、その時宜に応じた「企画展」を開催しております。

 また、平成15年度は吹田市が「非核平和都市」を宣言してから20周年を迎え、広島市へ平和大使として、中学生18名、一般市民15名を派遣し、平和記念式典に参列され、戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさ、平和の尊さを考えていただく機会としてまいりました。

 現在、世界各地では紛争がおこっており、子どもたちや一般の市民の方が犠牲になっておられます。真の恒久平和は人類共通の願いであり、平和な世の中になるよう平和啓発に努めてまいりたいと思います。

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