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姫路市における戦災の状況(兵庫県)

1.空襲等の概況

 師団司令部、39連隊が置かれた軍都姫路は、第二次世界大戦突入と同時に戦時色を深めていく。

 東京、名古屋、大阪、神戸など大都市への空襲が激化するにつれ、周辺地方へ縁故を頼って人や家財の疎開が増えた。そして金属類の強制供出で市内寺院のつり鐘はもとより、金属製の門扉や銅像まで回収された。

 一方、中等学校と国民学校高等科の生徒は、市内や近郊の軍需工場へ動員された。

 姫路も軽微なものを含めて何度かの空襲を受けたが、本格的な空襲は終戦の年の6月22日の川西航空機姫路製作所を中心とする爆弾攻撃と、7月3日深夜から4日未明にかけての市街地の焼夷弾爆撃の2回。この2度の大空襲で市街地は壊滅的な被害を受け、多数の死傷者を出した。

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2.空襲等の状況

 初めの川西航空機姫路製作所の爆撃は午前9時50分ごろ、B29の数編隊約60機が南方から飛来、約1時間にわたる波状攻撃を仕掛けた。この時の惨状を市民の一人は「炎と死体とガレキの、まるで生地獄の様相に一変してしまった。川西工場の建物はへし曲がった鉄骨の残骸だけとなり、製作中の飛行機は見る影もなく金くずとなって飛び散った」(兵庫県学校厚生会編「郷土の空襲」)と、その惨状を手記として寄せている。

 爆撃当時は徴用や学徒動員、社員など多くの従業員がいた。目的地である製作所は全滅の被害を受けたが、周辺でも民家や道路、上下水道などが破壊された。周辺住民を巻き込んだ人的被害は死者約340人、重軽傷者350余人にのぼった。

 次いで、7月3日深夜からの無差別焼夷弾爆撃は4日未明まで2時間近く続いた。姫路駅前から上がった火の手は順次周辺部に広がり、市街地は一面炎に包まれ、火の海地獄と化し、総戸数の40%が焼失。飾磨でも一部が被災した。

 市街地の北にある姫路城(世界文化遺産に登録)は奇跡的に被害を免れた。焼き尽くされた中に朝日を浴びてそびえ立つ城は、「まるでガレキの中に舞い降りた白鷺(しらさぎ)のように美しく、気高く、またどんな猛火にも焼けない不死鳥か、さてはいかなる暴力にも絶対屈服しない巨人のよう」(「郷土の空襲」の手記より)に映り、放心状態だった被災者の多くが食い入るように眺め、勇気づけられもした。この時の死者は約170人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者4万5,000人余という大惨事だった。(被災数字には出版物によって多少の違いはあるが、ここではいずれも姫路市役所発行の「復興の歩み」参考)

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3.復興のあゆみ

 戦災都市がそうであったように2度の大空襲で家を失った多くの市民は極度の窮乏生活を強いられた。

 その中に早くも復興の槌音が高く響き、市街地にレールが敷かれ、瓦襟の山が貨車で次々取り除かれ、新しい街が築かれていった。

 昭和21年3月、姫路を軸に瀬戸内海沿岸2市6町村を合併、新しい姫路市が誕生。住宅建設と焦土と化した市街地の整備を戦後復興の第一に考えた市は、城周辺の旧軍用地に市役所をはじめ公共施設や学校、市営住宅を建設した。姫路駅から姫路城に通じる大手前通り(50m道路)が昭和30年に完成し、それを中心に新市街地の戦後復興は軌道に乗った。

 朝鮮動乱がもたらした特需景気と相前後して、富士製鉄(現新日鉄)広畑製鉄所が操業を再開した。戦災で休止状態だった他の工場も相次いで復興、臨海工場地帯は活気を取り戻した。

 終戦とともに縁故疎開していた学童が次々に復帰、焼け残った寺院や旧軍隊施設を仮校舎として二部授業で再開した。それも教育施設が順次整うにつれて、正規の授業が受けられるようになった。戦災の焦土から立派に立ち直った姫路市は、活力みなぎる街づくりを目指し、いま着実な歩みを続けている。

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4.次世代への継承

 昭和31年10月、手柄山中央公園に太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔が建立後、毎年慰霊祭を催し、全国から遺族ら多数が参拝している。

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