明石への最初の空襲は、終戦の年にあたる昭和20年(1945年)1月19日のことであった。それは兵庫県下への最初の本格的空襲であり、明石西部に位置した川崎航空機明石工場が標的とされたものであった。
時間にして30数分のことであったが損害は甚大で、米軍の記録には、「発動機・組立工場の全屋根面積の39%に大損害を与えた。103万2000平方フィート(約9.6ヘクタール)を破壊、または損害を与えた」と記されている。
6月に入り、明石は3回にわたって、米軍の空襲にさらされた。いずれも川崎航空機明石工場が標的とされたものであった。6月9日の空襲では、工場にはほとんど損害がなかったが、明石公園周辺と明石市西部が被災し、明石公園に避難した市民がかえって命を落とすこととなった。同22日、26日の空襲では、工場と周辺地域が多大な損害を受けた。
次いで、攻撃目標は川崎航空機明石工場から明石市街地へと移された。7月7日、明石市街地に1045.2トンもの500ポンド焼夷弾が投下され、うち標的に命中した爆弾量は975トンに達し、街並みは焦土と化した。アメリカ側は「明石市内に多くの火災が発生。偵察写真によると、明石市の24%と川崎航空機会社の74.3%に損害、または破壊した」と記録している。
また、7月28日には、空爆により明石川水管橋が破壊された。
このように、明石は延べ6回の空襲をうけ、全市街の約61%を焼失するとともに、多くの尊い命が失われることとなった。(参照:明石市史編さん委員会編『明石市史 現代編I』4〜12頁。)
<昭和20(1945)年1月19日 空襲 川崎航空機明石工場>
<昭和20(1945)年7月7日 空襲後 旧明石警察署付近>
当市では、国民学校の学童の集団疎開は行わなかったが、縁故者を頼って行う縁故疎開が奨められた。
また、最初の空襲をうけた後、民家の延焼を防ぐため、4回にわたり、駅前通り(西側)等の計1003戸の家屋疎開を実施した。その他にも警察が介入して疎開を強制しようとしていたが、7月7日の焼夷弾空襲によってその必要がなくなった。
(参照:明石市史編さん委員会編『明石市史 下巻』447頁、455頁。)
当市における戦時の唯一最大の産業は、昭和15年9月に和坂にできた川崎航空機工場であった。この工場は約4万人を雇い、この産業では日本で最も重要な工場の一つで、当市の軍需生産に携わる他の工場は、鉄鋼工場や防毒機器工場を含めて、全て川崎工場の下請け生産であった。
これらの工場には、明石の男女中等学校生徒や小学校高等科生が学徒動員令によって働いていた。
(参照:明石市史編さん委員会編『明石の空襲 -米国戦略爆撃調査団報告から-』15頁。明石市史編さん委員会編『明石市史 下巻』447頁。)
回 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 合計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
日付 昭和20年 (1945年) |
1月19日 | 注) 5月21日 |
6月9日 | 6月22日 | 6月26日 | 7月7日 | 7月28日 | |
攻撃 飛行機数 |
62 | 1 | 24 | 26 | 31 | 124 | 3 | |
投下爆弾 (t) |
154 | 2 | 144 | 155 | 184 | 2 | ||
焼夷弾 (t) |
975 | |||||||
被災地域 | 船上、 林、 小久保、 大蔵谷、 大久保、 玉津村、 伊川谷村 |
明石公園北東、 上ノ丸2、3丁目、 太寺、 川崎航空機工場南東、 船上大坪、 船上権現、 新明町 |
林宮ノ下、 門田、 高西、 東部和坂、 中部和坂、 鳥羽など |
林、 和坂、 鳥羽、 公園通、 明石公園、 鷹匠町、 北王子、 三番町など |
市の中心部 6割3分消失 |
明石川水管橋 | ||
死者 (人) |
322 | 644 | 28 | 142 | 360 | 1,496 | ||
行方不明 (人) |
5 | 12 | 33 | 7 | 7 | 64 | ||
重傷者 (人) |
70 | 250 | 21 | 66 | 57 | 464 | ||
軽傷者 (人) |
71 | 350 | 141 | 133 | 695 | |||
全壊全焼 (戸) |
274 | 1,227 | 175 | 357 | 9,075 | 11,108 | ||
半壊半焼 (戸) |
410 | 634 | 373 | 1,093 | 104 | 2,614 | ||
罹災者 (人) |
3,355 | 9,458 | 1,364 | 6,384 | 36,410 | 56,971 |
度重なる空襲によって市街の約61%を焼かれ、繁華街商店街や重要工場事業場の大部分を失うなどの壊滅的な打撃を受けた当市は、復興への地ならしのため、道路交通に支障のないよう、市街地の主要道路に散乱堆積する焼失瓦礫の撤去や上下水道の応急復旧事業を急ぎ行うとともに、昭和22(1947)年10月に「復興明石まつり」を開催し、市民の復興への気力を盛り上げた。翌々年には市制30周年を迎え、盛大な催しが全市をあげて繰り広げられ、復興への機運を高めていった。
他方、昭和20(1945)年11月、戦災地の市街地計画とその施行、特に住宅建設供給をはかるために設けられた戦災復興院により「戦災都市」に指定された当市は、政府の「戦災地復興計画基本方針」を受けて「復興委員会」をスタートさせ、復興計画について審議を行った。その構想は、「観光並びに中小商工業都市として将来人口8万人と推定し、無統制な発展を抑制すべく計画された。」
(『明石市復興誌』)
復興計画は、当初、明石駅前通り及び市街地の中心におき、面積にして87万6千坪の区域を、道路を広げ、公園広場を確保し、上下水道の整備などを行うことと決定したが、物資統制下の上、財政緊縮の国家政策に沿い、計画を縮小して45万坪とした。その後、昭和31年度からは戦災復興事業の収束区域として25万8千4百坪に止め、残余の区域についての事業は、昭和35(1960)年度から都市改造事業として行われ、昭和56(1981)年に完了した。
(参照:明石市史編さん委員会編『明石市史 現代編Ⅰ』21頁、23〜24頁、27頁、28頁、112〜114頁、168頁。明石市史編さん委員会編『明石市史下巻』496〜498頁、623〜624頁。)
昭和46(1971)年の市民会館の完成から今日に至るまで、戦没者・戦災死没者を追悼するため、全市統一行事として追悼式を毎年11月に同会館で開催している。
また、平和の大切さを知ってもらうため、啓発映画を上映する平和映画会を毎年8月に同会館で開催している。