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西宮市における戦災の状況(兵庫県)

1.空襲等の概況

 昭和17(1942)年B25爆撃機が本土に初空襲するに及んで、阪神工業地帯に位置する西宮市民の不安は一層深刻になっていく。戦況悪化に伴い一億総武装が呼号される中、12歳以上の女子勤労挺身隊が組織され、川西航空機(株)に動員された。昭和20(1945)年には建物疎開が始まり、6,000人以上の学童が岡山県下へ強制疎開させられた。

 重要工業都市西宮は5回に及ぶ空襲を受け、市街地の大部分が焼失するという壊滅的な被害を受け、多数の死傷者を出した。

第1回空襲=昭和20(1945)年5月11日

 B29(アメリカ長距離爆撃機)約60機が午前中阪神地区に来襲し、西宮市の桜谷町、越水町・若松町・分銅町・末広町・千歳町・寿町などの各方面に爆弾を投下した。

第2回空襲=6月5日

 B29約350機が、午前7時ごろから10ないし30機の編隊をもって紀伊水道から阪神地区に侵入し、西宮市では川西町・霞原町・川東町・宮西町・荒戎町・市庭町などに焼夷弾攻撃を加えた。ついで6月9日にはB29約100機が主として鳴尾村に来襲した。そのため川西航空機鳴尾製作所では建物被害が60%にも達し、豊年製油鳴尾工場では油槽が全部破壊されて操業不能におちいり、昭和電極鳴尾工場でも若干の被害があった。

第3回空襲=6月15日

 B29約100機が少数の小型機をともない、約1時間にわたって主として大阪付近に焼夷弾攻撃を加えた。西宮市でも津門稲荷町・同仁辺町・同宝津町方面が罹災し、鳴尾村も被害を受けた。

第4回空襲=7月24日

 B29と小型機との計約150機によって爆弾が投下され、20機ないし40機の編隊による波状攻撃が加えられた。爆撃目標が川西航空機宝塚工場にあったので本市では仁川・段上・神呪方面に被害をだした。

第5回空襲=8月5日夜半から6日

 8月5日午後10時ころ空襲警報が発令されたが、これはまもなく解除された。ところが午後12時前になって再び警戒警報が出され、ついで空襲警報が発令され数機編隊で波状攻撃が加えられ、文字どおり焼夷弾・爆弾の雨がふった。火柱は市中いたるところに立ちのぼり、猛烈な火炎が夜空をこがして、爆発音や対空砲火がとどろいた。市民は防火にめざましい活動を示したが物量をほこる波状攻撃に対しては、ほとんど効果を挙げえなかった。こうして恐怖の一夜が明けると、市の南部市街地はほとんど全滅するという悲惨な姿に変わっていた。

 これらの数次にわたる空襲による西宮市の罹災面積は全市面積の18.4%にのぼった。兵庫県下の戦災都市のうち、面積では神戸市についで第2位を占め、第3位は尼崎市であった。本市の被害がいかに甚大であったかをうかがうことができる。

 西宮神社は8月6日の第5回空襲によって貴重な文化財を失った。境内に小型爆弾2発、焼夷弾300発以上が落下し、国宝建造物指定の三連春日造り本殿が全焼した。

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2.市民生活の状況

 長期にわたる戦時体制の下にあって、国民は日常生活のあらゆる面にわたりきびしい統制をうけた。

 戦時体制下にあって国民生活に最も深刻な影響を及ぼしたのは食生活の窮迫であって、まず主要食糧の自給が困難となり、外米の輸入が増加した。その対策として昭和14(1939)年12月から米穀の7分搗きが奨励され、ことに近畿地方では、翌15(1940)年7月から大規模な節米運動が実施され、官公署・銀行・会社などの食堂及び百貨店食堂・洋食店・喫茶店、カフェ、バー、待合・茶屋などでの米食を廃止し、料理店・一般食堂での米食を制限し、全国各地でも次第にこれにならうようになった。

 このような節米運動の徹底を期するため、一方では代用食に関する研究もおこなわれた。すなわち昭和15(1940)年10月23日兵庫県の時局課と西宮市の共同主催で今津小学校において代用食調理講習会が開かれ、講師として神戸阪急及び阪神・三越・大丸・十合の各百貨店食堂主任らを招き、西宮市の各婦人会より受講者を選び、芋羊羹・かしわ饅頭・カレーうどん・すいとん・野菜入り蒸しパン・ばらずし・干うどんのうで方などについて実習を中心とする講習が実施された。ついで昭和15(1940)年12月10日から家庭用米穀登録制配給が始まると、営業用米穀配給は警察署で取り扱い、特別配給は町会長の証明により特別配給票を発行し、ともに配給所から配給することとなった。この年の暮れに一般家庭に割り当てられた正月用糯米は一人あたり1.8キログラムであった。

 一方、米が主食である関係から酒造米は次第に圧縮され、減醸強化により販売・配給の統制が行われ、たとえば昭和16(1941)年5月分の清酒の配給は、酒造業の中心地である西宮においてさえ、隣組に対して2升(3.6リットル)以内であった。しかし米の消費は軍需関係の増配や妊産婦・青少年・労働者などへの加配のために供給の減少ほどに規制することは困難で、年々の持越高は減少するばかりであった。家庭配給量も始めは一人あたり一日米二合三勺(345グラム)を保つことができたが、そのためには昭和16(1941)年度に外米1,500万石(225万トン)余の輸移入をおこない、約二割ほども外米に依存せねばならなくなった。さらに太平洋戦争が始まると、外米の輸入は次第に困難となり、昭和17(1942)年度には約700万石(105万トン)に減少した。

 玄米食は栄養的見地に立って早くからその長所が指摘されてきたが、昭和17(1942)年11月、政府は米の消費量節減のために胚芽米や玄米食を奨励し、農林省〔昭和18(1943)年11月1日より農商省〕から玄米配給の方法を各地方庁に通達した。ついで昭和18(1943)年1月から、これまで七分搗きであったのが五分搗きに改められ、白米常用の習慣が根本的に破られた。そして米ばかりでなく、麦・かんしょ・ばれいしょ・大豆・とうもろこしなどをも総合的に配給し、全体として食糧の配給基準量を充足しようとした。そのうえ、昭和18(1943)年11月から始まる昭和19(1944)年米穀年度は、太平洋戦争における連合国軍の反抗が激化して外米の輸送が極めて困難になったので、食糧増産対策や供出・節米運動、酒造米の節減などを強化せねばならなくなった。西宮市でも、食料品を始め各種の物資の不足が年とともに深刻になってきたが、すでに昭和17(1942)年3月、生活必需物資配給連絡委員会を設置し、連合町内会ごとに1名の委員を出し、市役所・配給機関・市民の相互間の配給に関する計画の連絡協議にあたった。しかし、他の都市が物資不足の急を告げたのに比較すれば、西宮市はなお余裕があり、多数の買出し人が本市の市域に殺到し、市民生活に悪影響を及ぼすようになったので、市では昭和17(1942)年3月5日から暫定措置として市民票を発行し、指定物資にかぎり市民に優先的に購入させる方法をとった。

 農作物の増産にも絶えず努力がはらわれ、西宮市では昭和19(1944)年度において米穀・麦類・かんしょ・ばれいしょなどの供出割当量に対し、いずれも100パーセントを突破する良好な成績をおさめた。また農地調整及び食糧増産のために新たに農地委員会を設け、さらに自給肥料の確保のために市内数か所に堆肥舎を建設し、堆肥の増産に着手した。 しかし全国的にみれば、昭和18(1943)年、昭和19(1944)年と食糧事情はますます窮迫してきたので、政府は種々の法令を公布して不耕地解消・雑穀増産・藷(いも)類増産・労力確保に力を注いだ。労力確保については、さきに昭和16(1941)年12月27日〔昭和17(1942)年1月10日施行〕された農業生産統制令にもとづいて、昭和19(1944)年3月、農商省〔昭和18(1943)年11月1日農林省・商工省を統合して新設〕から戦時農業要員の指定が命令されたので、西宮市域でも男628名、女507名、計1,135名の戦時農業要員が指定された。

 不耕地解消については、休閑地の開墾はもちろんのこと、家庭菜園や道路端の畑にいたるまで、全国的に寸土も残さず野菜類の栽培が行われていた。たとえば鳴尾村では昭和15(1940)年8月から9月にかけて村役場の吏員が休閑地の耕作を実施し、300坪(990平方メートル)の畑を開墾した。昭和18(1943)年頃からは、鳴尾村の土地に適した藷類や大豆をあらゆる休閑地に植え付ける運動が強化された。この年、鳴尾国民学校高等科2年のある男子生徒が戦地に送った慰問の手紙によっても、当時の実情の一端をしのぶことができる。

『僕たちの学校も農園にさつまいもを植えたり、水田に稲を作らうと計画中です。高一の秋に植えた馬鈴薯もたくさん取れました。それで増産の一たんをなしたと思ってよろこんでゐます。又お百姓さんも一生懸命に増産し、はげんでおられます。馬鈴薯などはあまりたくさん取れたので米の代わりに馬鈴薯を食べてがんばってゐます。』
(鳴尾村銃後奉公会編「陣中御慰問」所収)。

<学童疎開>(父母のいる故郷に向かってあいさつ)

<学童疎開>(食料を運搬)

 

<学童疎開>(食事風景)

<学童疎開>(みんなで体操)

 

防空体制

 近代戦における航空機の重要な役割にかんがみて、満州事変後、防空についての関心が急速に高まってきた。とりわけ阪神地方はわが国産業経済上の重要地点であるために、その対空防備は緊急を要する問題とされてきた。そこで兵庫県当局及び武庫川以西から神戸市までの間の関係市町村においては、市町村長らの発意によって、昭和7(1932)年7月17日、初めての防空演習がおこなわれた。このような防空演習は、これからのち継続的に実施され、次第に大規模かつ広範囲にわたるようになり、防空に関する知識の普及や訓練の成果の向上をもたらした。これとともに西宮市の防空体制も次第に整えられた。

 昭和9(1934)年7月に実施された大規模な近畿防空演習に際しては、西宮市の防護団を小学校の通学区域によって8個の分団に分け、分団本部を各小学校におき、さらに各分団を警備・警報・防火・交通整理・防毒・救護・配給・連絡などの諸班に分けた。その人員は在郷軍人・消防組員・青年団員ならびに青年訓練所・西宮商業実修学校および高等小学校の男生徒ら計約3,500名で編成された。

 翌10(1935)年10月には阪神防空演習がおこなわれ、前回とほぼ同様な組織によって約2,730名の防護団を編成し、10月11日夜から13日まで警戒警報・灯火管制・空襲警報などの訓練を実施した。このような防空演習には、もちろん灯火管制などで市民全体が参加している訳であるが、さらに市民の自覚と積極的な協力とが要請されたので、昭和11(1936)年9月には正式に市長を団長とする西宮市防護団を組織し、別に西宮市防護委員会が結成され、市長がその会長となった。そして9月19日から21日にかけて行われた阪神防空演習には、各種団体員・学校生徒など約1,960名が参加して、灯火管制や警報伝達の訓練を実施した。

 ついで日華事変が起こると、防空はいっそう切実な問題となり、昭和12(1937)年7月26日から30日にかけて、この年第一次の阪神防空演習が実施され、つづいて9月15、16両日に第二次、10月4日から6日にかけて第三次、11月20日から30日にかけて第四次の演習がおこなわれた。

 これより先、政府は従来のような防空演習だけでは実際の空襲に対応するのに不十分であることを悟り、防空機構を整備強化し、国民に対して強制力をもって規制し得る法律の制定を企てた。こうして防空法が昭和12(1937)年4月5日に公布され、10月1日から施行された。この法律は一定の防空計画に基づいて、平素から統制ある訓練を強制し、必要な設備資材を整備させ、また一定の団体及び個人に対しても種々の義務を課することを規定し、民間防空の画期的な強化をもたらすものであった。

 この年実施された阪神防空演習も防空法の方針に則って行われ、とりわけ

  1. 防空諸施設の拡充特に灯火管制の強化
  2. 家庭防空の徹底
  3. 防護各機関の合理的活動

 の三点に主力が注がれた。

 西宮市でも商店街の灯火管制など軍の作戦に即応する総合的訓練が実施され、灯火管制下でも日常生活に支障のないことが宣伝された。その際9月27日には、市役所前広場で、半埋設式ヒューム管構造と木造との両様の簡易防空壕を構築して一般市民に展示した。その後も防空演習は年々さかんに実施されて、太平洋戦争の勃発にいたった。

<防空演習で偽装した市庁舎建物と高射砲陣>

<昭和14(1939)年第4次防空演習>

<昭和12(1937)年第1次阪神防空演習>

 

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3.空襲等の状況

 5回に及ぶ空襲の中、8月5日夜半から6日暁にかけて受けた5回目のB29爆撃機による波状攻撃は最大規模であり、文字どおり焼夷弾、爆弾の雨霰であった。火柱は市中いたるところで立ちのぼり、猛烈な火柱が夜空を焦がして、あたかも火の海地獄と化し、爆発音や対空砲火が果てしなく轟いた。

 恐怖の一夜が明けると、市の南部市街地はほとんど全滅という悲惨な姿に変わっており、国宝建造物に指定されていた西宮神社の三連春日造り本殿が全焼、同じく国宝の大練塀も約170mにわたって焼失するという惨状であった。

 5回にわたる空襲による西宮市の罹災面積は225万3,000坪で、全市面積の約20%にのぼった。県下で2番目という被害であり、死亡者637人、重軽傷者2,353人、全焼全壊約1万5,300戸、被災者6万6,500人余という大惨事であった。〔被災数字は昭和22(1947)年『市勢要覧草稿』による〕

<昭和20(1945)年8月6日空襲>
(空襲直後の市街地1)

<昭和20(1945)年8月6日空襲>
(空襲直後の市街地2)

 

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4.復興のあゆみ

 戦災に引き続いて敗戦という深刻な打撃を受けた市民の生活は、物資的にも精神的にも極度の混乱に陥った。

 そのなかで、昭和21(1946)年市役所に復興本部が設置され、折しも特別都市計画法の適用を受けた西宮市は、建設の槌音も高く近代都市として5ヵ年計画の事業が開始された。

 住宅建設と焦土と化した市街地の整備を推し進める中、終戦とともに疎開していた学童が次々に復帰し、やがて正規の授業が受けられるようになった。そしていち早く教育委員会を設置し、学校教育、社会教育の体制を整え、激動期の困難を克服しながら「文教住宅都市」としての施設の復興、拡充と教育内容の改善に力を注いだ。

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5.次世代への継承

 昭和30(1955)年4月、市内満池谷に戦没者慰霊塔が建立され、その後毎年、市の主催として戦没者合同慰霊祭を開催し、多数の遺族の方々が参列している。

 昭和33(1958)年7月には、「誰でも参加できるように」という基本理念に基づき、原水爆禁止西宮市協議会が結成された。この協議会は、政党、政派、主義、主張、思想、信条、宗派の違いを越えて、統一した市民運動を続けている。

昭和38(1963)年以降、わが国の原水爆禁止運動は幾つかに分裂したが、西宮の場合は、会員の理解と努力によって分裂することなく、平和・非核運動を続けている。

 平成8(1996)年には、西宮市平和モニュメント「平和の交響」が、JR西ノ宮駅前南広場に建設された。この平和モニュメントは、みんなが平和に暮らせる社会を目指し、平和への願いとその尊さを次代に伝える象徴として、また阪神・淡路大震災からのふるさとの復興の思いも込め、建設に取り組まれた。

 平成14(2002)年12月には、戦争被害についてこれを風化させないよう次の世代へ語り継ぐため、また戦争の悲惨さと平和の尊さを学ぶ場として、西宮市平和資料館を西宮市教育文化センター1階(西宮市川添町15-26)に開設した。展示資料については、市民の方々に西宮空襲など戦争関連の貴重な資料を寄贈していただいている。

<平和灯ろう流し1>

<平和灯ろう流し2>

 

<平和モニュメント>

<平和のつどい>

 

<平和資料館1>

<平和資料館2>

<不発弾>

<原爆展会場>

<被爆体験談>

 

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