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芦屋市における戦災の状況(兵庫県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年5月11日に最初の空襲を受けた後,6月5日・15日,8月5日・6日と計4回の空襲を受けた。特に,8月5日夜半から6日未明にかけて落とされた1,500発もの焼夷弾は,壊滅的な被害をもたらした。

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2.市民生活の状況

 市制施行から1年,市としての拡充事業が軌道に乗りつつあるとき,わが国は太平洋戦争へと突入し,戦時体制のもとに市の自治も失われていった。市民生活においても,味噌,醤油,塩,ミルクなどが配給制となり,食糧事情は窮迫した。

 また,戦争犠牲者が急増するにつれ,銃後奉公会,男女青年団,大日本国防婦人会等が出征軍人やその遺族の慰問,勤労奉仕,国防演習を行った。

 一方,空襲が次第に激しくなる中,昭和20(1945)年7月に精道国民学校学童223人及び宮川国民学校学童207人が,岡山県上房郡に集団疎開した。

<集団疎開>

<国防婦人会>

 

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3.空襲等の状況

 芦屋市への最初の空襲は,昭和20(1945)年5月11日,川西航空機甲南製作所(武庫郡本庄村=現・神戸市東灘区青木地区)を第一目標とした通常爆弾攻撃であり,投下爆弾は500ポンド(約250kg),投下時間は午前9時53分から10時3分にかけてのわずか10分間であった。

 6月5日午前7時22分から8時47分にかけて,神戸市東部への焼夷弾攻撃が行われた。この攻撃の結果,損害は神戸市街地だけでなく,御影から西宮にまで及んだ。芦屋市の2回目の被害は,この攻撃の余波によるものであった。

 6月15日に目標となったのは,大阪及び尼崎の市街地であった。午前8時44分から10時55分にかけて444機のB29が焼夷弾攻撃を行った。この焼夷弾の一部が芦屋市域に落ちたものである。

 8月6日未明,西宮から御影の市街地に焼夷弾攻撃が加えられた。いわゆる「阪神大空襲」である。6日午前0時25分,先導機が投弾を開始し,第314航空団の125機は午前1時36分までの71分間御影及び芦屋に,第73航空団の130機は午前0時38分から2時1分にかけて御影から西宮に投弾した。この結果,御影,芦屋,西宮の全市街地の約3割に損害を与えた。

 4回にわたる空襲の被害状況については,人的被害として,死亡139人,重傷57人,行方不明2人に及んだ。また物的被害としては,全焼家屋2,746戸,半焼87戸,全壊97戸,半壊126戸,焼失面積は約55万9,000坪,罹災者数は人口の約5割に当たる1万8,171人に及んだ。

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4.復興のあゆみ

 戦災の復興は被災直後に着手され,清掃事業や水道等の公共施設の破損修理が進んだほか,罹災者や引揚者に対する応急住宅の供給などが行われた。

 一方,5か年計画で復興土地区画整理事業に着手し,昭和26(1951)年3月には「芦屋国際文化住宅都市建設法」が公布され,本格的に戦後のまちづくりが開始された。以後,緑ゆたかで文化の香り高い国際文化住宅都市として独自の発展を遂げてきた。

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5.次世代への継承

 昭和30(1955)年11月,芦屋霊園に戦死者戦没者海外引揚物故者の慰霊塔を建立するとともに,毎年合同追悼式を開催している。

 また,戦争を最大の人権侵害としてとらえ,平和展を継続的に実施している。

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