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相生市における戦災の状況(兵庫県)

空襲等の概況

 1943年(昭和18年)播磨造船所は海軍艦政本部により、第二次戦時標準船として改E型貨物船を早期にかつ大量に建造するため、同船建造の専門建造の専門工場として、戦時中さえ役立てば戦後の経営は考慮しないという考えのもとに、施設も一時的な簡易なものにする簡易造船所を建造するように示達を受けて、その技術指導のもとに相生市松ノ浦の市有埋立地、さらに隣接の公有水面を埋立て工事建設用地に選定し、1943年(昭和18年)1月建設に着工し、1944年(昭和19年)3月に松ノ浦工場が完成した。

 こうした大事業をごく短期間に一民間企業が行うことは、資金の面からも資材の面からも不可能であったため、海軍施設本部との契約によって工場の建設は播磨造船所が請け負い、機械設備の大部分は海軍艦政本部が調達する官設民営の形式をとった。

 改E型船の量産化のために、松ノ浦工場は船台工程を四工程の縦移動建造方式(流れ作業方式)とし、また、加工、ブロック組立工程には構造別のブロック・ライン・システムを採用するほかに、作業を単純化するためにすべて冶具によるノー・マーキングの方式を採用した。こうした徹底した作業の単純化は未経験工の大量使用を可能とし、松ノ浦工場の建造実績は良好で、改E型船建造造船所では一位であり、他の造船所を含めても建造量は全国六位に位置していた。

 1945年(昭和20年)になると、3月ごろから阪神地区、そして6月ごろから姫路地区が空襲されるようになった。

 播磨造船所は表事務所玄関前、第一渠北側などに防空壕を造り、松ノ浦工場もまた磯際山の山腹に防空壕を構築した。また空襲を避けるためとりあえず設計部門のみを疎開させることとなり、同年5月、造船・造機設計課を土井ヶ谷の旧寮舎に移転した。

 一方、全従業員は万一に備え血液型を記入した身許票を衣服に縫いつけることとし、また、揖保村・矢野村に分散衣類共同格納庫を設置して従業員の家庭用品の疎開を図った。

 播磨造船所が空襲を受けたのは、1945年(昭和20年)7月28日午前7時10分のことである。米艦載機倉グラマン約30機が来襲、機銃掃射を行い、250kg爆弾と無数の10kg爆弾を投下した。この空襲によって、運輸課長以下職員10名、工員21名、学徒1名、その他7名、計39名の死者と多数の負傷者を出した。

 また船台ではタワークレーン基が倒壊し、第二・第三船渠付近でもタワークレーン基が倒壊し、第二渠の渠壁が破損した。

 同日午後零時半ごろ再び空襲を受け、現図・木工工場が全焼した。

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