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下津町における戦災の状況(和歌山)

1.空襲等の概況

 米機が阪神地方を襲う場合は、紀伊水道に沿って北上するのが常であり、数機または10数機の編隊が、下津町上空を往復飛行するたびに、警報が発令されることしきりで、住民を脅かし続けた。

 とりわけ、下津町は戦争に欠かせない製油関係の大工場があり、いつ爆撃されるのかと大きな恐怖心におののいていたことである。

 下津町も軽微なものを含めて、何度かの空襲を受けたが、本格的な空襲は終戦の年の7月2日夜、丸善石油製油所東工場を中心とする爆弾攻撃と、7月6日夜の丸善石油製油所西工場を中心とした爆撃の2回であり、この2度の大空襲により丸善石油下津製油所が全滅するとともに、周辺住家も全焼、全壊の被害を受け、多数の死傷者を出した。

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2.空襲等の状況

 第1回被爆は昭和20年7月2日(晴)。午後9時30分ごろ、突如、近畿地方に空襲警報が発令され、たちまちB29が来襲、爆弾を投下、炸裂音は地響きをたて石油タンクの破裂音が続く。真っ赤な炎と黒煙は夜目にも物凄く、投下第1弾が丸善石油製油所東工場の貯蔵タンクに命中したのである。

 しばらくして、数機のB29爆弾機は数10発を投下し製油所上空を旋回した。

 この爆撃で丸善石油製油所東工場地帯が消滅し、周辺住家が全焼、全壊の被害を受けるとともに、執拗に繰り返された爆弾の投下に37人の尊い命が失われた。

 第2回被爆は7月6日(晴)。午後11時ごろ、空襲警報発令あり、俄然うなりを立てて爆弾投下、間断なき波状攻撃は、2日夜の第1回と同様の凄惨なもので、製油所西工場は火の海となり、この夜の攻撃で丸善製油所の西工場地帯が全滅した。

 下津町被爆による損害は、死者53人、負傷者は不明となっているが住家の全焼、全壊102戸、半焼、半壊154戸という惨状であった。(被害状況および被災数字についてはいずれも「下津町史通史編」参照)

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3.復興のあゆみ

 丸善石油製油所の爆撃による付近の民家や、田畑の被害跡もそのままに、荒廃した郷土が残っていた。

 戦場へ連れ去られた夫や父を、あるいはわが子の帰りを待ちながら、物資不足による貧困や飢えとの闘いが始まった。働き手を戦場へ奪われているだけに、農民が丹精こめて作っていたみかん畑は荒れ果てていた。

 みかん栽培農民にとって、極度に不足した生産資材のもとであったが、努力によってみごと復旧した。しかし、それは決して簡単になされたものではなかった。

 第二次大戦の空襲によって壊滅した、丸善石油製油所も戦後米軍の石油基地となり、昭和23年、下津港も和歌山下津港として開港場に指定され、翌24年、石油工場の再開許可とともに工場の復旧と港湾施設の拡張も進められてきた。

 しかしながら、経済的な事情により石油産業の撤退に伴って、今日では鉄骨橋梁メーカーの進出により活気を取り戻しつつある。

 立ち直った下津町は「飛躍のまち、下津町」として、更に発展すべく町民-体となって取り組んでいるところである(合併により現在は「海南市」)。

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4.次世代への継承

 下津町戦災遺族会の主催により、例年9月に長方寺の境内にある慰霊塔の前で慰霊祭を催し、遺族ら多数が参拝している。

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