総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 島原市における戦災の状況(長崎県)

島原市における戦災の状況(長崎県)

1.空襲等の概況

 昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争は、次第に激しさを増し、昭和19(1944)年頃から島原半島地域の小都市にも攻撃がなされるようになった。

 当時島原では、現島原農業高校付近に特設飛行場が作られ、秘密の特攻訓練が行われていた。また、暁部隊という陸軍部隊が九十九島あたりを中心にして防衛任務についていた。

 島原市への空襲は、爆撃することもなく飛び去ろうとした敵機に暁部隊が機関銃で攻撃したことにより始まったと言われている。

 島原市の空襲は、昭和20(1945)年7月(日付不詳)に1回、艦載機の来襲があり、島原鉄道の列車、当時官営のアルコール工場であった宝酒造、市庁舎、その他民家などが艦載機からの機銃掃射や焼夷弾の投下により被災を受けた。

 被災状況は、死亡者3名、重傷者5名、軽傷者3名であった。
(被災状況の数字は、出版物によって多少の違いがあるが、ここではいずれも(財)太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会発行の「平和の祈り」参照)

ページトップへ戻る

2.市民生活の状況

 防空の完全を期するために、島原警防団・島原署・市役所の各係員が、家庭・特設防護団などの器具の点検を実施したり、警防団の地区別に訓練が実施されている。

「赤い布の中に何かを入れ、それを焼夷弾とみなしてそれを投げ、婦人たちが懸命にバケツで水をかけ、消火の訓練をした。各町内でよしあしの判定もなされ、真剣さが増された。」(消防団副団長の手記)

「学校生活も次第に戦争協力の場に変わっていきました。授業時間にも警戒警報や空襲警報があって、落ち着いて勉強もできなかった。物資も不足し、桑の木を切り、その皮をはいで軍に収めて、粗末な服を作ってもらった。一方では、食糧増産に一役買って、農家の手伝いや、学校自体が市体育館の敷地を開墾し、芋や裸麦を植えたりして勉強というより戦争に駆り立てられたといっても過言ではありません。」(学校教員の手記)
(島原半島の戦災空襲を記録する会編『島原半島の戦災誌』より)

<国防(愛国)婦人会奉仕作業(昭和16年頃)>
片町・中町の婦人会が食料確保のため城跡で甘藷の植付作業
(島原市発行『島原の今と昔』より)

<防空演習(昭和18年9月)>
黒ずきんの出で立ちは当時のユニホームです。(中町町内演習記念)
(島原市発行『島原の今と昔』より)

<灯火管制(昭和18年頃)>
灯火管制を呼びかけたビラ(島原市発行『島原の今と昔』より)

 

ページトップへ戻る

3.空襲等の状況

空襲時の心境

「私と妹は、近所の人と広いいも畑の中に敷き布団を持ち込んで、それを頭からかぶって避難していた。暗くなってから敵襲があり、私達の頭上を八回も旋回して機銃掃射をあびせてかけた。敷き布団の下にもぐって、しっかり握りしめた手に汗がにじむのをはっきり感じた。今にも背中に弾が当たるような気がした。」
(ある市民の手記)

島原鉄道列車への空襲

「二本木さまの地点辺りで、グラマン機が2機以上、下り列車を挟み撃ちするように機銃掃射を加えてきました。一瞬にして、列車内は修羅場といったシーンとなりました。怪我をして泣き叫ぶ人、死んだようになってぐったりしている人、列車の陰で攻撃を免れてほっとしたような顔をしている人、さまざまでした。」
(島原鉄道空襲時の乗務員の手記)
(島原半島の戦災空襲を記録する会編『島原半島の戦災誌』より)

「三会あたりで、アメリカの飛行機が飛んでいるのに気づきました。二本木まで来て、避難しようと思ったとたん、ボイラーをぶち抜かれ、田町から宮の町あたりまで、蒸気を吹き出して走りました。乗客のなかに休暇で帰る兵隊さんがいて、その人の誘導で、乗客は田んぼに飛びこんで伏せました。4機か5機で反復攻撃したようです。
その時の機関車は加津佐で解体されたように覚えています。」
(島原鉄道空襲時の機関手の手記)
(島原鉄道株式会社発行『島原鉄道の歩み』より)

ページトップへ戻る

4.次世代への継承

 昭和35(1960)年3月、島原市遺族会が島原城内に建立した殉国慰霊堂を筆頭に、市内数カ所に慰霊碑等がある。

 慰霊行事としては、毎年10月に島原市戦没者慰霊奉賛会が主催する島原市戦没者追悼式典が開催され、多数の遺族の方が参列されている。この他、地区単位の慰霊祭なども開催されている。

 また、毎年8月6日、9日の原爆記念日及び15日の終戦記念日にはサイレンを吹鳴し、市民へ黙祷の呼びかけを行っている。

ページトップへ戻る