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大分市における戦災の状況(大分県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年3月18日、大分県は初めて米艦載機の銃爆撃にさらされた。ウルシー泊地を出撃した米第58機動部隊が九州から四国を東岸沿いに北上する一方、空母群に搭載した爆撃機が、鹿児島から日豊本線沿いに北上しつつ、航空基地を主目標に輸送路・軍需工場を叩いたのである。

 佐伯基地を襲った30数機は、途中、日豊本線の列車に銃撃を浴びせるなどして、午前8時50分ごろ大分市上空に達した。攻撃の目標とされた大分海軍航空隊は、ロケット弾や13ミリ機銃により、あっという間に滑走路、士官宿舎が破壊され、退避していた陸爆「銀河」など数機が真っ赤な炎と黒煙を吹き上げた。

空母発進のこの戦爆連合艦載機群は翌19日も再来襲した。米軍のこの攻撃は、3月末から4月にかけて発動する沖縄進攻の支援作戦、そして呉在泊中の戦艦「大和」の攻撃が目的とされていた。

 沖縄戦たけなわの4月前半と梅雨の6月上旬を除いて、米機は定期便のように連日来襲し、基地や工場だけでなく市街地もねらわれた。攻撃機の主体はマリアナ基地発進のB29で、4月21日朝には大分駅機関庫・勢家・新川に投弾され、昼過ぎには偵察を兼ねた1機のB29の高高度爆撃で、航空廠第3工場の勤労動員学徒18人を含む70余人が即死している。

5月8日には、長浜町から笠和町に至る町並みがB29のじゅうたん爆撃を受けて民間人多数が死傷、特にいつ爆発するかわからない時限爆弾は市民を不安に陥れた。その不安を裏書きするように、大空襲という悪夢の一夜が大分市に訪れた。

 7月16日は、午前中に空襲警報が一度出されただけで、この警報も間もなく解除になった。数日前の豪雨により、市内のいたる所には水溜りができていた。午後9時すぎに警戒警報発令。午後11時すぎ、まず照明弾が投下され、後続のB29攻撃機30機が約6,000発の焼夷弾を市中心部に投下、約1時間半後に退去している。

大分市は瀬戸内に面する東九州最大の都市で、県庁・連隊区司令部の所在地でもあり、佐伯・大分・宇佐の三飛行場に対する緊要な海軍航空廠もある。また、鉄道操車場もあり、日豊・久大・豊肥本線の中枢であった。

 米軍資料によると、当夜の攻撃目標は大分市郊外地区とされているが、実際に焼夷攻撃を受けたのは市中心部の商店街などで、郊外地区では大分川から大野川尻にかけての一部と白木付近にわずかに投弾があったにすぎない。

 また、爆弾を全く使用せず焼夷弾攻撃だけという事実が密集家屋や人畜への攻撃意図を露骨に示しており、市民生活を脅かし戦意の低下をねらう戦略爆撃ということが明らかであった。

 この大空襲による被害は、全焼家屋2,358戸、半焼130戸、焼け出された人10,730人、死者49人、負傷者122人という大惨状であった。

 その後も連日のように米機の来襲があり、8月10日の白昼には市西部地区を中心に最後の焼夷攻撃が行われ、不運にも多数の人が犠牲となった。

初空襲から終戦までの22回にわたる空襲で、死者は177人、負傷者は270人にも達し、749発の投下爆弾や9,500発の焼夷弾攻撃によって中心市街地はほぼ全滅した。

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2.市民生活の状況

 昭和19(1944)年6月15日、米軍がサイパンに上陸し、翌16日に北九州地区が攻撃された後は、夜間に北上するB29編隊のコースに大分県が当たっていたため、本物の空襲警報がこの夜からたびたび発令されるようになった。

 警戒警報のサイレンで市民ははね起き、男子は国民服・戦闘帽・ゲートル姿、女子はもんぺ姿になり、各自が救急袋を下げ、防空頭巾をかぶり鳶口や火叩き棒を手にする。やがて空襲警報のサイレンが鳴ると、警防団員の「退避」のメガホンで市民はそれぞれの防空壕に飛び込むという生活が続いた。

 どの家にも防火用水・砂袋・むしろ・バケツ・鳶口・火叩き棒・シャベルの防火七つ道具が用意された。焼夷弾が落ちると、まず濡れむしろをかぶせ、その上に砂袋を置き、洩れ火を火叩きで消す。燃え上がれば延焼部分を鳶口で叩き壊し、バケツリレーで食い止めるという要領となる。言うは易いが、屈強な若者たちは戦場にとられているから、防ぎ手は警防団の「おじさん」たちか、婦人や子供たちであった。

戦局の悪化で危険な都市部から安全な地方へと転出する人が多くなり、深刻化する食糧不足にも拍車をかけた。東京・大阪から大分などの地方都市へ、その地方都市が標的にされるようになるとさらに農漁村部へと疎開していった。また、大分市の郊外部には、沖縄在住の老幼婦女子ら非戦闘員約2,000人も終戦まで集団疎開をしていた。

 しかし、疎開が仇となった不運な人もいた。戦争末期、東京の空襲を見越して故郷の大分中学に転校した生徒が勤労動員に駆り出され、昭和20(1945)年の航空廠への爆撃で死亡している。

 疎開は人間ばかりではない。市内の主要な建物周辺の民家は延焼を防ぐための建物疎開として、有無をいわさず撤去され、残った民家も焼夷弾が天井裏に止まれば消火作業ができないという理由で天井板がはがされた。大分駅前から本町・堀川町までの約1,500戸、金池・長浜・王子・勢家町などの一部が強制疎開の対象となり、警防団や中学校低学年の勤労奉仕組、婦人会などが住宅の取り壊しにあたった。

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年7月16日の夜半から17日未明にかけての大空襲を市民の証言や記録からたどると・・・・。

午後11時すぎ、まずB29攻撃機一機が大分市上空に侵入し旋回しながら照明弾を投下。続いて、後続編隊が「ゴオーン、ゴオーン」と不気味な爆音を響かせながら1〜2、3分間隔で数機ずつ上空に達し、旋回しながら焼夷弾をばらまいていく。市民の退路を断つためか、まず周辺部に輪をかくように落とし、次第に中心部に迫るという方法だ。

「モロトフのパンかご」とよばれる親爆弾が空中ではじけ、飛び散った無数の焼夷弾が爆撃とはまた違った「シュル、シュル、ジャー」といった落下音とともに雨アラレと降り注ぐ。

着弾と同時に、黄リン・油脂が真っ赤に燃えたぎって飛び散り、訓練通りに濡れむしろをかぶせ、砂袋で押さえ、水をぶっかけ火叩きで叩いても火は消えず、水を這い壁をよじ登って家を焼き尽くす。わが家の焼夷弾は消したものの、隣家の焼夷弾で延焼した人もいれば、大分商業高校では生徒たちの消火活動で焼失を免れたケースもあった。

上野方面や大分川べりに逃げる市民が多かったが、妻子を失った教師、3人の愛児を防空壕への直撃で焼き殺された母親、殺されぬまでも顔に深い傷を受けた乙女やショックで失語症になった婦人など、同夜の空襲は戦後も消えることのない苦しみ、悲しみを残したのである。

「大分駅に立って眺めたら、浜町の海が見通せた」といわれるほど、大分市の中心街は焼き尽くされた。

当時の三好市長はとりあえず被災者に乾めん2食分、にぎりめし1食分を配給し、負傷者や病人は大分国民学校・大分予習学館・南大分国民学校・上野の金剛宝戒寺に収容。県教育会館内に「戦災対策本部」を置いた。

17日昼すぎには水道が復旧し、夜には電気も通った。縁故先のない人は焼け残りの古材やトタン板でわが家の焼け跡に三角小屋を作り、着のみ着のままで炊き出しの列に並んだ。退避壕内や焼け残りの物資がねらわれる恐れもあったので、警察は「盗んだ者は戦時窃盗罪で厳罰に処する」と警告している。

大空襲の主な被災町名は、竹町・本町・京町・細工町・大工町・室町・茶屋町・魚町・堀川町・寺町・西新町・北新町・鍛冶屋町・荷揚町・船頭町・笠和町・上紺屋町・下紺屋町・今在家町・名ヶ小路町・於北町・中上市町・西上市町・清忠寺町・下柳町・上柳町・中柳町・桜町・西小路町・白銀町・塗師町・長浜町・王子町・西町・中島町。

被災した主要建築物は、大分県庁・県会議事堂・大分郵便局・大分市役所付属庁舎・県立病院・大分合同新聞社・大分合同銀行・大分地方裁判所・門鉄大分管理部・大分師範学校・中島国民学校・県立第一高女・第二高女・大分幼稚園・大分税務署・県立図書館・県警練習所・岩田高女・大分避病院・大分市貯蓄銀行・人造羊毛工場・一丸デパート跡。

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4.復興のあゆみ

 県下で唯一戦災復興都市に指定された大分市では、昭和21(1946)年9月、特別都市計画法に基づく戦災復興事業5か年計画に着手した。

 その復興事業計画とは、『大分県の百年』(山川出版社)の記述を借りれば以下のとおりである。

  1. 幹線道路の駅前新川線(中央通り)県庁前線(昭和通り)を、それまでの道幅15メートルから36メートルに拡幅する。道幅30メートルのかんたん滝尾線(産業通り)の新設など道路の整備。
  2. 区域内4パーセントの地積を確保し、小公園を7か所新設する。
  3. 区域内にある6か寺の墓地を撤去し、新たに墓地公園を造成して移転統合する。
  4. 駅前広場を新設する。
  5. 日豊本線以南の雨水を中枢部より遮断する。
  6. 上水道をさらに拡充整備する。

 しかし、相当思いきった復興計画であったため、市民の風あたりも強く順調には進まなかった。昭和22(1947)8月に開かれた復興協議会では、毎日の生活に苦しむ市民の経済状況を無視してまで復興大計画をこのまま進める必要があるのかとの猛反対を受けている。

 復興5か年計画は、そうした市民の反対や事業計画の変更等もあったが、昭和27(1952)年度までにほぼ終了した。昭和25(1950)年には、全国110余りの戦災都市の中でも、格段の復興ぶりということで、建設大臣から「モデル都市」の表彰を受けている。

 昭和30年代に入ると、戦災復興事業と並行し工業化による都市づくりが模索される中、海岸線を埋め立てし、工業用地を造成して東九州における一大工業地帯を建設するという臨海工業地帯開発計画が具体化し、戦争によって破壊された工業を復活し、農林・水産業を中心とする産業構造からの転換が推し進められた。

 昭和38(1963)年3月には、大分市・鶴崎市・大南町・大分町・大在村・坂ノ市町の6市町村が合併して新しい「大分市」が成立し、翌39年には全国総合開発計画の拠点開発構想という国策のもと新産業都市の指定を受け、鉄と石油を基幹産業とする発展が約束された。

 現在では、新産業都市建設を機軸とした都市化の進展により、東九州における経済活動の動脈を形成する中核都市となっている。

 

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5.次世代への継承

 昭和33(1958)年以降、戦没者の御霊を慰めるとともに再び戦争による惨禍を繰り返すことのないよう恒久平和を祈念して、市主催の「戦没者追悼式」を開催しており、遺族をはじめ毎年多数の市民が参列している。

 また、昭和58(1983)年8月には、全国の平和を願う人々の浄財をもとに、平和市民公園ワンパク広場に「ムッちゃん平和像」が建立された。「ムッちゃん」とは、横浜から大分のおばさんを頼って疎開していた当時12歳の少女で、肺病を患い西大分の防空壕で暮らしていたが、戦争が終ってからも壕の中に取り残され、独り寂しく亡くなったという。

 市では、この平和像の建立を契機に、翌59年から平和祭実行委員会との共催で毎年8月に「ムッちゃん平和祭」を開催し、戦争の悲惨さや平和の尊さを次の世代に伝えるとともに平和を願う市民の輪の拡大を図っている。

 昭和59(1984)年12月24日には、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願い、「平和都市」を宣言し、昭和62(1987)年12月、市庁舎南側に平和都市宣言の記念碑を建立した。

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