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延岡市における戦災の状況(宮崎県)

1.空襲等の概況

 延岡市は、当時世界でも屈指の大工場であった日本窒素化学工業株式会社(現旭化成株式会社)があり、総合化学工業地帯として発展を遂げていた。

 しかし第二次世界大戦突入後は、順調に上昇線をたどってきた旭化成も人絹設備(人造絹糸・レーヨン)は強制供出にあい、悪条件の中、かろうじて最低の操業を行なっていた。その反対に、火薬部門および硝酸部門は海軍の管理工場として活用され、軍用火薬の製造に重点がおかれていた。

 そして敗戦の様相がいよいよ濃厚となっていた昭和20(1945)年6月29日、戦火はついに延岡に及んだ。延岡市街地は焼夷弾攻撃によるはげしい空襲を受け、市街の大半は焼失し、多数の死者を出した。

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2.市民生活の状況・空襲等の状況

 延岡市に初めて爆弾が投下されたのは昭和20(1945)年3月4日の朝で、幸い人畜の被害はなかった。同年5月には、農家の防空壕に爆弾が命中し親子が、また、旭化成工場宿舎近くに爆弾が落ち、学徒動員隊の死亡者があった。

 戦火がいよいよ激烈となり、本土決戦の様相が深刻となってきた昭和20(1945)年6月29日、「延岡大空襲」を受けた。

 深夜午前1時15分、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き、市民は一斉に防空壕に避難したが、「いつも通りの上空通過だけで終わるだろう」という考えで、みな落ち着いた様子であった。しかし、その日はいつもとは違っていた。次第にB29の旋回音が聞こえ出し、不気味な落下音とともに焼夷弾攻撃が始まった。攻撃は2〜3時間余にわたり、街はまたたく間に火の海と化した。この攻撃により即死者130人、戦災面積2.18km(2)、被災戸数3,765戸、被災者15,232人という大惨事となった。
(延岡市役所発行の「延岡市史」参考)

 夜が明けると、あたり一面焼け野原のなか、城山の緑がくっきりと朝日に映えているだけだった。


<延岡大空襲直後の延岡市街地>

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3.復興のあゆみ

 戦災復興計画に際して、戦前の土地、建物利用状況等により土地の利用計画を再検討した。

 まず、戦前の土地、建物利用状況等により土地の利用計画を再検討した。特に本市は、旭化成を中心とした工業都市として発展する都市と考えられ、将来の工業地域との関連性を重視した。また、近隣町村との交通、衛生等環境を害さないよう適正な配置を実施した。市の地域的な観点から、五ヶ瀬川以北の地域は商業、五ヶ瀬・大瀬川に挟まれた川中地区には行政・文教・商業、大瀬川以南は商業・住宅・工業に伴う施設を配置した。

 これらの配置計画に伴い、都市計画街路事業にも着手した。まず、工業都市としての性格や規模及び土地の利用計画に際し、将来の交通量や主要道路を考慮した。市中心部を南北に走る現在の国道10号線を大幹線とし、これに伴う環状線や、その他市街地における主要幹線の街路を整備した。

 復興計画が着実に進む中、旭化成の拡充に伴い、急速に都市としての機能は発達し、現在では宮崎県の中核都市として、県内では随一、東九州地域においても有数の工業集積地となっている。


<昭和37(1962)年頃の復興された延岡市街地>
(日向日日新聞社「延岡大観」より)

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4.次世代への継承

 戦後、遺族会などを中心に、慰霊塔の建立を望むようになり「殉国慰霊塔建設委員会」を組織し、昭和33(1958)年10月、延岡城本丸広場に「殉国慰霊塔」が建立された。ここには明治39(1906)年2月に建立された「招魂碑」もあり、毎年4月5日に合同慰霊祭が行われている。

 この他、延岡中学校には、延岡大空襲によって殉職されたカナダ出身の栗田彰子先生の碑が建立され、毎年6月29日の命日に慰霊祭が行われている。

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