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日南市における戦災の状況(宮崎県)

1.空襲等の概況

 昭和20年3月18日、この日は本県が初めて空襲を受けた日である。この日午前6時頃、空襲警報のサイレンが鳴り響くと同時に、多数の艦載機グラマンが、上空に暗い影を見せ、日南市や宮崎市が襲撃された。

 記録集「鉱脈」よると「午前6時頃敵艦載機十数機が、宮崎駅付近を機銃掃射同時刻頃、県内には約800の米軍機が来襲、海軍赤江飛行場(現在の宮崎空港)や飫肥パルプ(現在の新王子製紙日南工場)、外の浦造船所などが機銃掃射され、多くの死傷者が出た」とある。

 戦局は日増しに悪化。当時の飫肥パルプ、外の浦造船所はその後も度々襲われ、空襲警報は頻発した。

 このうち、隣町の外の浦造船所は昭和18年に軍事目的で建設されたが、1年後の昭和19年には、旧宮崎中(現大宮高校)、飫肥中(現日南高校)を中心に約400人の学徒挺身隊が参加、また1,500人の県民が自主的に参加、カライモ、アワなどで飢えをしのぎながら、作業を続けようやく軌道に乗りかけた矢先に銃撃を受け、進水したばかりのタンカー5隻が撃沈された。

 日南市史によると、日南地方を攻撃目標とした空襲は、昭和20年3月18日の第1回の空襲以来、最終の7月まで4回とされているが、他地区の爆撃の帰路に銃撃されることも度々で、その回数は明確ではない。

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2.空襲等の状況

 第二次世界大戦も戦時色を深めていく中、戦場も遠い大陸や島のことではなくなってきた。昭和19年秋、本土空襲を想定し、各地区で防空教育が始まっている。

 昭和20年元旦には、油津上空に偵察のため、1機のB29が現れ、人々を驚かせた。そして、昭和20年3月18日早朝6時頃、日南地方が初めて空襲を受けた。来襲の敵機は、400数十機といわれている。

 この空襲により、市内油津の港に近い場所を重点に、グラマン機による機銃掃射、爆弾投下によって、油津地区港一帯の民家が焼失し、死傷者が出たと記録されているが、数的にはさだかではない。

 そして、昭和20年5月19日、漁業をしながら敵の飛行機や潜水艦の監視に当たっていた特殊漁船が米軍のグラマン機攻撃により、42人が亡くなっている。

 その後、2回にわたる空襲で数名の死傷がでたが、昭和20年7月16日の第4回目の空襲で、さらに大きな死傷などが出た。

 青空の下、この日も朝から空襲警報が鳴っていた。数十機の米機は日本軍の弾薬庫となっていた天理教教会を襲ったため、付近一帯は一瞬のうちに修羅場と化し、地区民27人と海軍兵1人が死亡、多数の負傷者を出したと言い伝えられている。

 この空爆により、標的とされた日本パルプ日南工場(現在の新王子製紙日南工場)は、ロケット弾投下による建物の焼失があったほかは人的な被害の記録はない。

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3.復興のあゆみ

 度重なる空爆によって住家を失い、最愛の肉親を犠牲としながらも、日南地方の住民は一丸となって戦後の混沌とした世相の中で、子供の養育に家業にと食うや食わずの耐久生活を送りながら明るい希望を持って再生に努力してきた。

 昭和20年敗戦の虚脱状態からようやく抜け復興の意欲も徐々に芽生えてきた。

 昭和21年5月16日には、戦争のため中断されていた日南鉄道を復活開通させようと再び期成同盟会が結成され、全国に先駆けて運動を開始したが、物資食料不足の中、手も足も出ない状態が3、4年続いた。

 このような中、昭和22年頃から4カ町村の有志の間に大同団結して市制を施行しようとする気運が高まり、昭和25年1月新しい日南市が誕生した。そして新市長のもと、市民一丸となって熱心な誘致運動を続けた結果、長年の念願であった日南鉄道が昭和38年に開通した。

 関係者は勿論、市民の喜びと感激はひとしおであり、正に日南に夜明けを告げる明るいニュースであり「陸の孤島」と言われ続けてきた言葉に終止符を打った一大事業であった。

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4.次世代への継承

 平成5年11月、それまで市内7地区ごとに区長会が主軸となって斉行していた慰霊祭を一本化し、日南市戦没者追悼式として開催している。

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