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枕崎市における戦災の状況(鹿児島県)

1.空襲等の概況

 太平洋戦争末期、軍部は本土決戦の準備に追われていた。敵の上陸地点として鹿児島県では枕崎市沿岸も重要地点の一つとされていた。そこで昭和19年舶舶工兵部隊の暁部隊の配備に次いで、主力部隊として昭和20年4月には護南兵団の配置が見られた。

 枕崎では昭和20年元旦、偵察機とみられる1機のB29が高高度飛来して以後、3月17日を皮切りに度々激しい空襲を受けた。また、古くから南方漁業基地として栄えた港町枕崎は、大型漁船も多かったため軍人以外の働き手の男性は、軍に徴用された鰹船に乗って南方にあり、残った銃後の人々は山周部に疎開小屋を造り、子供、老人をはじめ重要な家財道具の疎開を強いられることになったのである。その後も繰り返し、波状的に攻撃が加えられてきている。

 最初のころは数回にわたる機銃掃射攻撃であったが、後には焼夷弾による爆撃を受けるようになり、これによる被害が甚大なものとなった。

 特に、7月29日家屋が密集している市街地に、8月1日には山間部に油タンクや焼夷弾が落とされ、家屋のほとんどが焼失するなど壊滅的な被害を受け、多数の死傷者を出した。

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2.空襲等の状況

 昭和20年1月、敵機B29が薩摩上空に来襲するようになる。3月17日、敵機の機動部隊から発進した数百機に余る艦載機は、編隊をなして西から東、東から西へと威嚇行動をなす。ついに数十機のグラマンは低空で山間部の集落を機銃掃射。これが枕崎最初の空襲である。

 枕崎は漁業基地というより、軍の基地としての様相をおびるようになり、戦争末期には、造船所でも軍用船を建造したり、海空の船舶もかなり多かったため、その後も敵機は枕崎方面を繰り返し波状的攻撃を受けている。

 枕崎地方は、このころ炎天続きであった。午前7時40分、警報と前後して数十機入り乱れて機銃掃射が始まり、市街地の上空に無数の焼夷弾がばらまかれた。多数の油タンクと焼夷弾と燃えさかる猛煙・猛火にいぶり出されたように、防空壕の外に逃げるのに必死であった。

 被害状況は、この日だけで焼失家屋2,315戸、死者38人(全体では69人)、重傷者27人に及んだのである。更に終戦1か月後には、復興もままならず途方に暮れる人々に追い打ちをかけるように、史上空前の枕崎台風の襲来を受け、枕崎は壊滅的な打撃を受けたのである。

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3.復興のあゆみ

 当時は、まだ町(昭和24年9月市制施行)であった枕崎は、終戦と同時に枕崎町復興部を設置し、罹災者の救済、建物の復興事業などに着手した。

 昭和21年10月、戦災復興都市計画事業が政府の承認を得て指定された後、薩南工業学校生徒40人の応援のもとに、県の事業として本格的に測量が開始された。

 事業計画としては、「かつお漁業を中心とした南方漁業の拠点として隆昌をはかり、南国特有の観光資源を生かした漁業都市となす」、「商業地区として港に近い折口、銀座を中心にとり、工業地としては将来、外港計画を構想して港の西側とする」などのほか、住宅、道路、公園緑地、上水道、墓地の7つの基本構想を掲げ、5か年計画として取り組んできた。

 このような中にあって、町長(前述)の宿願でありながらこれまで戦争によって延ばされてきた市制実施は、戦災復興が軌道にのったところで、昭和24年9月1日遂に実現をみたのである。

 その後、昭和30年に市役所の新庁舎が完成。36年には新港建設に着手。37年、テレビ中継所完成。38年、国鉄指宿枕崎駅も開通するなど、戦災で市街地の9割を失い、続く枕崎台風で壊滅的な打撃を受けたまちの立ち上がりとしては、全国でも珍しいものであった。

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4.次世代への継承

 昭和38年12月、市内平山公園内にある枕崎神社の境内に、太平洋戦争戦没者慰霊塔を建立後、毎年慰霊祭を催している。

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