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宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

1.空襲等の概況

 昭和19(1944)年10月10日午前7時30分、宮古島南方上空に見馴れない機影が編隊を組んで現れた。秋晴れの平良町上空でそれは東西に分かれ、飛行場方面と漲水港へ急降下する。間もなくサイレンが鳴り銃撃音、爆撃音がこだまして対空砲が応戦しても、友軍機の演習が実戦さながらに行われていると多くの町民が空を見上げていた。飛行場の方面から黒煙が舞い上がり、"銀翼連ねて"宮古島の空を守るはずの"荒鷲"が燃え上がるのを見て、ようやく本物の空襲であることを知った。45分に及ぶ空襲で、島の3カ所の軍用飛行場からは応戦に飛び立つこともなく9機が撃破された。

 続いて午後2時5分第2波、延べ19機による空襲で、漲水港沖合に停泊中の広田丸(2,211トン)が撃沈されるのを目の当たりに見せつけられた。この「10・10空襲」を皮切りに宮古島は連日のように米軍機の空襲にさらされ、瓦礫の島へと化していった。

 昭和20(1945)年になり、3月までの宮古島の空襲は、主に軍事目標が狙われていたが、4月に入ると次第に市街地が狙われていく。時限爆弾や街を焼き尽くす焼夷弾も用いられるようになり、平良の街は廃墟と化した。

 5月に入ると、爆撃が連日続くようになる。陸軍の特攻作戦が本格化するのに伴い、その中継基地としての宮古島は狙うに値するものとなった。5月4日、宮古島は飛行場を中心に猛烈な艦砲射撃が浴びせられた。郡民の恐怖は上陸作戦があると流布されるに及び、宮古島全体は混乱に巻き込まれた。

 宮古には米軍の上陸こそなかったものの、相次ぐ爆撃に加え、食糧難からくる栄養失調、非衛生的な壕生活を強いられる中で風土病マラリアが流行し、病死者が続出した。


<爆撃を受ける平良の軍事施設>
『平良市制50周年記念誌きらきらひらら』(平良市・平良市制50周年記念事業実行委員会1997年)

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2.市民生活の状況

 防衛担当軍の視察で「宮古島は、島全体が平坦で起伏に乏しく、航空基地として最適である」と判断された宮古島には、3カ所の飛行場が建設された。土地の接収は買収の形で半強制的に行われたが、土地代は公債で支払われたり、強制的に貯金させられ、しかもこの公債や貯金は凍結されて地代は空手形であった。飛行場建設には島民の多数の老若男女や児童までも動員され、昼夜を問わない突貫作業が強行された。

 昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人が宮古島にひしめいた。急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られた。「10・10空襲」のころから海上輸送は困難になり、軍部は残された農地を軍要員自給用農地としてさらに接収した。当初は現金による契約など一見合法的な動きがあったが、自分の所有する畑に、ある日突然"軍用農地"の看板が立てられ、入れなくなるという事態も起きた。いつ飛来するか分からない空襲に備えて、炊事のための焚煙は夜間だけに制限され、燈火管制下の平良町は夜ともなれば文字通り暗黒の町となった。

 戦況が悪化するにつれ、宮古島では食糧不足が深刻化し、慢性の栄養失調は郡民の体力衰弱となり、マラリアの蔓延を来す。物資不足の中で衣類は米穀用麻袋がその材料となる。予告なき襲撃の前に脱衣して水浴することも人々の生活から失われ、空襲におびえるなかでシラミとの闘いも始まる。昼間の作業は死につながるようになり、月明かりなどで植え付けていた甘藷も照明弾投下の夜間空襲が始まるなかで食糧自給の道も閉ざされてくる。備蓄した非常食が底をつき、掘り残されて土中で芽を出した"草のいも"を掘り、処理を誤ると中毒死につながる蘇鉄採りが始まる。生と死が隣り合わせる「もう一つの戦争」に宮古島は巻き込まれていった。

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3.空襲等の状況

 昭和19(1944)年10月10日(火)のいわゆる「10・10空襲」が、宮古島における初空襲である。軍要員10人の死傷、民間人平良町3人、下地村1人の死者、住家の全半焼13軒の被害があった。

 その後の空襲は、10月13日にあって、年内はほぼ小康を保ち、明けて昭和20(1945)年正月早々から再び始まり、3月以降7月までは連日のように繰り返された。4月3日延べ140機、5日延べ200機、8日延べ300機と大空襲が終日続き平良のまちはあらかた焼失した。平良に限らず、連日の無差別爆撃で民家の密集地帯は全郡的に焼けてしまった。

 5月4日午前11時すぎ、下地村宮国(現在上野村)沖合に集結したイギリス極東軍隊の艦砲射撃が始まった。およそ30分間で385発の砲弾が撃ち込まれたと言われている。

犠牲者

「平和の礎」には、宮古地区で3,460人の戦没者名が刻まれている。軍関係の戦病死者1,500人が判明しているが、民間犠牲者の正確な人数は不明となっている。空襲時の機銃弾・爆弾の直接被弾死、爆風・家屋倒壊による圧死、疎開船の海上遭難等を含めると、その人数は統計よりはるかに多いと言われている。

平和の礎刻銘者数(宮古地区)〜令和3年6月現在〜
旧平良市 1,513人
旧下地町 500人
旧上野村 199人
旧城辺町 589人
旧伊良部町 490人
多良間村 169人
総計 3,460人

 県外への疎開は、昭和19(1944)年8月から10月にかけて行われ、疎開者はおよそ1万人。ほとんどが台湾への疎開であった。児童だけのいわゆる学童疎開は、平良第1国民学校13人、平良第2国民学校21人、下地国民学校46人、あわせて80人で、3校とも教師1人ずつつき、宮崎県小林町(市)へ疎開した。

住宅及び建造物の被害

 連日の猛爆撃で市街地のほとんどが焼失、形だけ残っている家屋も爆弾による強烈な激震、爆風で痛めつけられ、機銃掃射によって屋根瓦は砕かれ、雨漏りのしないまともな民家は皆無に近い状態となった。市街地の東部あたりから西方の海が見えるほどさえぎる建物のない廃墟の町と化した。

 このような空爆被害のほかに、家屋の類焼を防止するという名目で茅葺き家屋の強制撤去がなされ、さらに瓦葺き家屋も間引き撤去され、その資材は陣地増築、補強用によって軍部に持ち去られ、その数約500棟(約1万坪)に及んでいる。

損失船舶

 昭和19(1944)年8月から半年の間に宮古近海において空爆、魚雷攻撃を受けて撃沈された艦船は10隻に達し、500トン級の民間船籍を持つ貨物船から2万トン級の航空母艦まで含まれ、その総トン数は3万7,120トンとなっている。

 漲水港内では、「10・10空襲」で撃沈された広田丸(2,211トン)、昭和20(1945)年3月下崎沖で撃沈された豊坂丸(1,966トン)、大建丸(2,200トン)等総計7隻で、その総トン数は8,149トンに達している。

 しかし、これらの被害船舶の中には宮古船籍をもつ漁船、くり舟などは含まれておらず、漲水港、池間漁港内の民間船舶の損害を含めると、この数字はもっと上回ることになる。

<攻撃される平良港(漲水港)付近>
『平良市制50周年記念誌きらきらひらら』(平良市・平良市制50周年記念事業実行委員会1997年)

 

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4.復興のあゆみ

 戦争が終わり平和を取り戻したものの、価値体系の崩壊、虚脱状態の郡民を待ちかまえていたのは、一面の焼け野原とすっかり底をついた衣食住、伝染病のまん延だった。加えて復員軍人・軍属、動員解除者、疎開引揚者等によって人口は7万余にふくれあがり、窮迫度はいっそう深刻なものになった。

 人々の英知、不屈の郡民性は、この未曾有の大混乱-敗戦後の難関を克服し、着実に前進していった。

 昭和22(1947)年3月、平良町は市に昇格。昭和24(1949)年11月、3代目市長として登場した石原雅太郎による電気・水道・港湾の3大事業と都市計画の策定で、平良市の基礎づくりが始まった。

 その後、歴代市長によって都市基盤・生活基盤の整備は着実に進み、平良市は宮古圏域の中核都市として発展してきた。昭和47(1972)年の本土復帰以降、情報・交通網の近代化で市民生活はさらに便利になり、豊かな自然彩られた宮古島を訪れる観光客も年々増加している。


<三大事業竣工祝賀パレード>
『平良市制50周年記念誌きらきらひらら』(平良市・平良市制50周年記念事業実行委員会1997年)

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5.次世代への継承

 平良市は、平成15(2003)年度から「平和週間」を設けた。期間は6月23日の慰霊の日を最終日とする1週間で、風化しつつある戦争の悲惨さや命の大切さを市民にあらためて考えてもらうため写真展等を開催している。

核兵器廃絶平和都市宣言

 世界の恒久平和は人類共通の念願です。戦争ほど残酷なものはありません。戦争ほど悲惨なものはありません。平和を壊す戦争は悪であり、絶対起こしてはなりません。

 日本は、世界で唯一の核被爆国として核戦争に反対し、その全面撤廃を全世界に訴え続けてきました。しかし、核軍備の拡大は依然として続いており、通常兵器の軍備拡大も一段と強化し、世界の各地で戦火に苦しむ多数の人々がおります。

 平良市は、平和憲法の精神からも非核三原則の完全実施を願い、すべての国の核兵器の撤廃と軍備縮小を求め、人類の永遠の平和を希求し、核兵器廃絶の世論を喚起するため、ここに平和の砦として「核兵器廃絶平和都市」となることを宣言します。
昭和58年7月1日宣言

慰霊行事

[宮古島市全戦没者追悼式及び平和祈念式]

  • 開催日:毎年6月23日(慰霊の日)
  • 主催:宮古島市、宮古島市教育委員会

啓発活動

[太平洋戦争に関連する企画展]

  • 開催日:毎年6月
  • 主催:宮古島市総合博物館

[沖縄戦特設資料コーナーの設置]

  • 開催日:毎年6月
  • 主催:宮古島市立図書館

注)小・中学校では、平和集会や講演会、調べ学習、パネル展示など、独自の取り組みが行われている。

参考文献
  • 『平良市史第一巻通史編1(先史〜近代)』
  • 『平良市史第四巻資料編2 近代資料編』
  • 『平良市制50周年記念誌きらきらひらら』 平良市・平良市制50周年記念事業実行委員会 1997年
情報提供:宮古島市教育委員会生涯学習振興課

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