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沖縄県における戦災の状況(沖縄県)

沖縄県における戦災

 沖縄県は、太平洋戦争で国内最大の地上戦が展開、一般県民を巻き込んだ熾烈な戦闘が繰り広げられ、軍民あわせて20万余の尊い生命、財産、文化遺産を失った。

 地上戦だけではなく、疎開学童が数多く亡くなった対馬丸事件、那覇市をはじめ、県内市町村が被害を受けた10・10空襲、多くの若者が戦争にかり出され亡くなった学徒隊、戦争マラリアなど、想像を絶する被害を受けることとなった。

 また、戦争が終わった後も、戦争で破壊された故郷の復興は容易ではなかった。

表1 沖縄戦戦没者の推計状況※(出典:「沖縄の援護のあゆみ」1996年 沖縄県生活福祉部)
事項 戦没者数 備考
全戦没者数 200,656  
1.沖縄県出身軍人軍属 28,228 厚生省から送付された戦没者名簿に掲載された数
及び未帰還者調査票により死亡広報発令者数
2.他都道府県出身兵 65,908 沖縄県護国神社合祀者数
3.一般県民 94,000 昭和19年の人口と昭和21年の人口を勘案して、一般県民約94,000人と推計した数
小計(1〜3) 188,136 日本人全戦没者数
米軍 12,520 米軍政府資料
※昭和32年頃に琉球政府が推計

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1. 疎開

 太平洋戦争末期、戦況が悪化していくなか、ついにサイパン島の失陥が確定的となり、政府は昭和19(1944)年7月7日の緊急閣議により南西諸島から老幼婦女と学童を九州へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を疎開させる計画を決定した。実際には、九州各県及び台湾へ約7万人が疎開したといわれている。

 学童疎開の対象者は、基本的に国民学校初等科3年生から6年生までの男子とされていたが、実際には疎開児童の兄弟、姉妹、引率教諭や世話人の家族も一緒に疎開したこともあり、1、2年生や女子、高等科の学童も疎開している。学童疎開は沖縄に限ったことではなかったが、海に隔てられた沖縄からの疎開は、大変な危険を伴い、実際に米潜水艦の攻撃により784人の学童を含めおよそ1,500人が犠牲となった対馬丸の悲劇も起きている。また、米軍が西太平洋に潜水艦群を集中的に配備し、物資や人を運ぶ艦艇や輸送船を無差別に攻撃したため、軍人軍属だけでなく、一般乗客や南洋群島からの引き揚げ者なども多く犠牲になった。

 学童疎開の内訳は、宮崎県へ疎開学童と関係者(訓導、寮母、世話人など)をあわせて3,120人、熊本県へ3,056人(注1)、大分県へ389人の6,565人が疎開したと言われている。

 2年余りにわたる疎開生活は、ひもじさ、寒さ、寂しさだらけだったと疎開体験者のほとんどが語るとおり、今では想像を絶する過酷なもので、また赤痢などの伝染病や米軍機の空襲により犠牲となる者もいた。

 台湾疎開については、学童疎開ではなく身内を頼りにした縁故疎開と無縁故の集団疎開が実施された。ある疎開地では、学校や工場が宿泊場所となり、教室などに2〜3家族が雑魚寝をしながらの生活だったという。空襲を避けるため、二次疎開、三次疎開と異郷の地をさまよう惨めな境遇であった。
(注1)3,059人とする資料もある

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2. 対馬丸遭難学童

 疎開学童の第一陣は、昭和19(1944)年8月15日那覇市学童131人が潜水母艦「迅鯨」に乗艦し、8月16日に鹿児島へ上陸した。対馬丸は、同年8月21日僚船「和浦丸」、「暁空丸」と駆逐艦「蓮」、砲艦「宇治」の護衛艦で船団を組み那覇港を長崎へ向け出港した。

 対馬丸には西沢武雄船長の外、学童、一般疎開者1,661人、船舶砲兵隊41人、船員86人の計1,788人が乗船していたが、出航の翌日、8月22日22時12分頃、鹿児島県十島村悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没し、氏名が判明しているだけで1,484人(内学童784人、訓導・世話人30人、一般疎開者625人、船舶砲兵隊21人、船員24人)が犠牲となった。


「対馬丸」日本郵船歴史博物館所蔵写真

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3. 10・10空襲

 昭和19(1944)年10月10日、南西諸島は米機動部隊の猛烈な空襲を受けた。米艦載機による攻撃は、5波、のべ1千余機におよび、県都那覇市はじめ、各地の飛行場や港湾施設は大きな被害を受けた。

 空襲の第1波は、午前6時過ぎから小禄、読谷、嘉手納、伊江島の各飛行場を中心に攻撃され、第2波では、午前9時20分から海軍小禄飛行場と高射砲陣地、港湾などが攻撃された。第3波は、午前11時45分から、那覇、渡久地、名護、運天、泡瀬の港湾施設、船舶などが攻撃され、第4波は午後0時40分から、第5波は午後2時45分から那覇が集中的に攻撃され、市内の90%を焼失した。
 被害は、軍民あわせて死者668人、負傷者768人におよんだ。


「空襲で焼け野原となった那覇市」沖縄県公文書館所蔵写真

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4. 地上戦

(1) 沖縄戦の戦闘経過

 沖縄戦において、日米両軍は、総力を挙げて死闘をくり広げた。米軍は物量作戦によって、空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を打ち込んだ。

 この「鉄の暴風」は、およそ3か月におよび、沖縄の風景を一変させ、軍民20万あまりの死者を出す凄まじさであった。

(2) 慶良間列島・沖縄本島上陸

 昭和20(1945)年3月26日、米軍は最初の上陸作戦を慶良間列島で決行、つづいて4月1日、読谷から北谷にかけての海岸に上陸、その日のうちに陸軍北飛行場(読谷)と陸軍中飛行場(北谷)を占領した。第32軍は上陸地点での戦闘を避け、地下陣地に立てこもり、持久作戦をとった。


比謝川河口・渡具知から嘉手納の飛行場へ向け上陸する米軍(4月1日)」沖縄県平和祈念資料館所蔵写真

(3) 本島北部・伊江島の戦闘

 本島北部は、一般住民の疎開地域に指定されており、第32軍は国頭支隊や遊撃隊などが配備されているだけであった。米軍は4月13日までに辺戸岬に達し、4月20日ころ本部半島を制圧した。一方、伊江島は当時、東洋一と言われた飛行場が建設され、守備隊が配備されていたために、米軍の主要な攻撃目標とされ、4月16〜21日にわたる戦闘で、一般住民約1,500人を含む4,700人余が犠牲となった。


米軍の攻撃を受ける伊江島(4月)」沖縄県平和祈念資料館所蔵写真

(4) 本島中部・首里の戦闘

 南下した米軍は、4月6日ころから敵部隊の南下を阻止するために構築された宜野湾・浦添一帯の日本軍陣地の前で激しい抵抗にあった。約40日以上に及ぶ一進一退の攻防戦の後に米軍は中部戦線を突破、首里城下にある軍司令部の防衛線に達し、5月11日から総攻撃を開始した。日本軍は安里のシュガーローフや運玉森などで激しく抗戦したが、5月下旬、第32軍司令部が南部へ撤退、首里は完全に占領された。

(5) 本島南部の戦闘

 中部・首里戦線の戦闘で6万人の兵力を消耗した日本軍に対して米軍は、掃討戦の形をとって追いつめていった。南部一帯は那覇・首里・中南部からの避難民と敗走する日本軍の入り乱れる戦場と化した。米軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃し、さらに日本兵や住民が隠れている壕に対しては「馬乗り攻撃」を行ったため、多くの人々が犠牲となった。6月23日(22日の説がある)、牛島司令官の自決によって日本軍の組織的戦闘は終了した。

(6) 大東諸島(南大東、北大東、沖大東)の戦闘

 大東島は沖縄の防衛強化のための前進基地として各島に日本軍が配備され、飛行場や自然壕などを利用した数多くの陣地が築かれていった。昭和20(1945)年3月頃から米軍の激しい艦砲射撃や空襲があり、大きな被害を受けている。島の人々の多くは沖縄本島や県外に疎開させられた。小さな島のため食糧は不足し、外部からの補給も断たれ、人々は飢餓に苦しんだ。

(7) 津堅島の戦闘

 津堅島は米軍の中城湾侵入に備えた中城湾臨時要塞の砲兵陣地として昭和16(1941)年夏から、島民総動員で陣地づくりが行われた。

 沖縄戦では日本軍約160人が配備され、それに防衛隊約40人、島民女子約30人が加わっている。米軍は艦砲射撃と空襲を行いながら、3回にわたる上陸作戦を実施し、激しい攻防戦が展開されたが、昭和20(1945)年4月には全島が占領された。

(8) 宮古・八重山の戦闘

 宮古・八重山やその他の離島の多くは、空襲や艦砲射撃を受けたが、地上戦は行われなかった。しかし、食糧不足による栄養失調やマラリアに苦しめられ、数千人の犠牲者を出した。

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5. 学徒隊

 沖縄戦では、日本軍の補助要員として、師範学校や旧制中等学校(中学校、高等女学校、実業学校)の学徒たちも動員された。当時、沖縄にはこれらの学校が21あった。

 動員の対象となった学年は学校によりバラバラでだったが、男子学徒の鉄血勤皇隊には15歳から18歳が動員され、通信隊には中学校2年(14歳)が動員された。鉄血勤皇隊は、陣地構築や糧秣運搬、立哨などの日本軍の補助任務にあたり、通信隊は、電話線の架設や補修、雑役など通信部隊の補助任務に従事した。

 女子学徒は15歳から19歳で、陸軍病院や野戦病院などで負傷兵の看護活動にあたった。
 全体では男子学徒が約1,500人、女子学徒が約500人、併せて約2,000人動員されたが、激しい戦火の中、男子学徒約800人、女子学徒約200人にものぼる多くの若者が亡くなった。

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6. 戦争マラリアの被害

 日本軍の指示、命令によって多くの住民がマラリア有病地域である山中に避難、退去させられマラリアの犠牲になった。また、食糧不足による栄養失調と医療品の不足が、マラリアの蔓延に拍車をかけた。とくに、八重山、宮古、沖縄本島北部一帯の山中での犠牲が多く、八重山地域では人口約3万1,700人の半数以上が罹患し、うち3,647人が亡くなっている。戦争が終わった後にマラリアが原因で収容所で亡くなった人々も多くいた。

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7. 収容所での生活

 米軍は日本兵や沖縄の住民を収容するために、有刺鉄線で囲った仮収容所を各地に設置した。そして、投降した者を尋問によって一般住民と戦闘参加者に分け、一般住民は民間人収容所に、戦闘参加者は捕虜収容所に収容した。収容所では、住民は割り当てられた区画にテント小屋や掘っ立て小屋を建てて生活した。米軍から、食糧や衣服、医薬品が支給されたが、マラリアや栄養失調によって命を落とす者も多くいた。

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8.復興のあゆみ

 米軍は、昭和20(1945)年10月末、収容所から旧居住地への住民の移動を許可し、昭和21(1946)年4月までに、約32万5,000人が旧居住地へ帰ったといわれている。廃墟と化した故郷を復興させるため、建設先発隊が派遣されるなど、復興作業が進められたが、米軍基地として接収された地域の住民は、周辺に集落ごと移転せざるを得なかった。

 故郷への帰還後は、地域に配給所が設置され、食糧や衣料などが、配給されたが、それも十分ではなく、「戦果(米軍倉庫などからかすめ盗った物)」で飢えをしのいだり、機械用のモービル油で天ぷらを揚げることもあった。

 また、飛行機の残骸のジュラルミンを溶かしてナベ・ヤカン・アイロンなどを作ったり、衣服も軍服を仕立て直して着用したりしました。住宅は初めの頃屋根は茅ぶきで、壁はテントという家が多く、後に「規格住宅」と呼ばれた戦後復興住宅が建てられた。

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9.次世代への継承

 沖縄県は、太平洋戦争において、一般住民をも巻き込んだ悲惨な地上戦となり、多くの尊い生命とかけがえのない財産及び文化遺産を失った。このような冷厳な歴史的事実にかんがみ、戦没者のみ霊を慰めるとともに、世界の恒久平和を願う沖縄の心を発信するため、「沖縄全戦没者追悼式」を沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日の「慰霊の日」に、糸満市摩文仁にある平和祈念公園で毎年開催している。
 また、県内各地にある「慰霊塔や慰霊碑」でも、遺族や関係者の方々によって慰霊祭が執り行われている。


沖縄全戦没者追悼式の様子(沖縄県保護・援護課撮影)

参考文献
『沖縄の援護のあゆみ』沖縄県生活福祉部 1996年
『平成16年度疎開関係者実態調査事業報告書』沖縄県総務部知事公室 2005年
『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』沖縄県教育委員会 2017年
『沖縄県平和祈念資料館 総合案内』沖縄県平和祈念資料館 2001年
 対馬丸祈念館ホームページ http://tsushimamaru.or.jp/

情報提供:沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課

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