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那覇市における戦災の状況(沖縄県)

1. 10・10空襲と那覇の壊滅

 昭和19(1944)年10月10日早朝、米海軍航空母艦・巡洋艦など100隻余りが沖縄本島東の海上約280kmの地点に到達し、艦載機が那覇を目指して飛び立った。いわゆる10・10空襲である。米軍の攻撃は、小禄飛行場や那覇港など軍事拠点を皮切りに、午前7時前から午後3時過ぎまで5次にわたり行われ、のべ1,396機が出撃した。午後からの市街地への攻撃では、試験的に焼夷弾が多用された。
 那覇市の市街地はコンクリートの建物を除くほとんどの家屋が焼失し、その被害は死者225人、負傷者358人で、全市域の90%近くが焼失した。この日より、多くの那覇市民が本島北部などへ疎開し、那覇は復興する間もなく米軍上陸を迎えた。


戦前の那覇市上空」(那覇市歴史博物館提供)


攻撃を受けた船舶(左下)と那覇市街」(那覇市歴史博物館提供)


10・10空襲とその後の市街地戦で壊滅した那覇」(那覇市歴史博物館提供)

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2. 沖縄戦

 昭和20(1945)年4月1日、読谷・嘉手納の海岸に上陸した米第10軍は、3日目には東海岸(太平洋側)に到達し、沖縄本島を南北に分断した。米軍は日本軍が司令部を置く首里を目指し南下し、宜野湾・浦添などの中部戦線で日本軍と激しい戦闘を繰りひろげ、5月10日には安謝川を渡って天久台地(現新都心地区)に進攻した。那覇は前年の10・10空襲、その後の砲撃によりすでに廃墟と化しており、散発的な戦闘は行われたものの、5月下旬には米軍に制圧された。
 首里城地下に壕を築き、司令部を置いた日本軍に対し、米軍は北・東・西の三方から首里を包囲し、空・陸から20万発ともいわれる膨大な数の砲弾を首里に撃ち込んだ。日本軍は米軍攻撃の中、5月27日の夜、南部撤退を開始し、首里を放棄した。米軍は30日に首里を制圧し、さらに日本軍を追撃した。首里(日本軍)の背後は安心と南部地域に止まっていた多くの地元住民は、日本軍の撤退とともに南部での戦闘に巻き込まれ、これ以降、一般市民の死者が増大した。
 琉球王国の面影を色濃く残した首里や、県庁所在地として発展した那覇では、学校など一部のコンクリート製の建物を残し、そのほとんどすべてが焼失した。

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3. 那覇の戦後復興

 昭和20(1945)年沖縄戦終了後、沖縄本島中・北部の収容所に集められていた那覇の住民は早期の帰村を望んでいたが、戦前の市街地であった東町・西町、那覇港周辺は米軍基地として住民の立ち入りが禁止されていた。米軍は食器や鍋・釜など生活物資製造を目的に城間康昌以下103人の壺屋の陶工を復興先遣隊として、昭和20(1945)年11月10日に那覇の郊外壺屋に入市させた。15日には大城鎌吉以下136人の設営隊が住居設営・瓦製造を目的に牧志(元三越付近)に入り、翌年には、先遣隊・設営隊の家族も呼び寄せられた。
 戦後の那覇は、かつての街はずれであった壺屋・牧志を中心に人口が急増し、市場や芝居小屋など娯楽施設ができ、街が形成されていった。


改修前の国際通り」(那覇市歴史博物館提供)

慰霊行事

  • 那覇市戦没者追悼式(なぐやけの碑慰霊祭)
  • 開催日:毎年10月第4土曜日もしくは日曜日
  • 主催:那覇市、那覇市議会
  • 場所:平和のモニュメント「なぐやけ」(波の上ビーチ広場)

参考文献

『那覇のまつりと10・10空襲』 那覇市歴史博物館 2014年
『沖縄戦〜あの時の出来事、そして米軍統治〜』 那覇市歴史博物館 2015年
情報提供:那覇市福祉政策課

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