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うるま市(旧具志川村)における戦災の状況(沖縄県)

1.空襲等の状況(具志川市史より抜粋)

 具志川国民学校駐屯の歩兵第89連隊では、昭和19(1944)年10月10日、午前6時15分、5機編隊の飛行機が具志川上空から楚南(現うるま市石川)上空を経て、嘉手納方面へ向かうのを発見したが、読谷(北飛行場)上空で急降下爆撃するのをみて、敵機と判断した。住民の中には徴用で越来村倉敷にいるときに空襲に遭遇し、木の陰に隠れながら一日中空襲の様子を見たひともいた。

 那覇市が集中的に空襲を受けたが、平良川からも黒煙が望見できた。

 宇堅西組の女性が自宅の井戸から水汲みのためにツルベに手をかけた瞬間、米軍機の機銃掃射をうけ、右手首の上を貫通するという重傷を負った。

 井戸の周囲は木が生い茂っていて上空からは人の動きを探知できる状況ではなかったので、やみくもに撃った弾が運悪く当たってしまったようである。家族が安慶名の神村病院まで運び込んで一命は取り止めたが、手首の腱が切れて腕が不自由になり、具志川村民唯一の「十・十空襲」被害者となった。

2.具志川村内での戦没者数

地名 戦没者数 地名 戦没者数
上江洲 2 喜屋武 1
大田 6 仲嶺 2
具志川 28 兼箇段 6
田場 5 米原 1
赤野 5 赤道 26
宇堅 5 宮里 4
天願 12 江洲 5
昆布 9 高江洲 11
栄野比 7 前原 6
川崎 5 豊原 3
西原 塩屋 3
安慶名 1 川田 9
平良川 4 村内 71
上平良川 合計 237名

3.終戦当時の市民生活(石川市史より抜粋)

 終戦当時の住民生活が衣も食もすべて米軍の放出物資で賄われて、しかも無償であった事は50歳以上の人には知っている所である。もちろんこの無償配給がそう何時までも続くものとは思わなかったが、軍は昭和21(1946)年5月1日から賃金制を実施したこともあって、6月1日には無償配給を打切ってしまった。

 軍はそれ以前の4月15日から28日の間に通貨の交換(旧日本円と新日本円の交換)を行い、有償配給の前ぶれをしていた。有償だから金さえあればいくらでも買えるというものではない、相変わらずの制限配給で、軍はこれを補給物資と称していた。けだし補給物とは足らない分を補給するという意味で、主体はあくまでも住民の生産物であるとの事であったと思うが、しかし当時は田にまだ一茎の稲も無かったから、配給物を住民の生産物を主とする事は時期尚早であった。しかし当時は配給対象を農家・非農家と区別して、農家には生産は行われていないにもかかわらず主食物(当時はメリケン粉が主食であった)の配給はなかった。又その他の脂肪源・蛋白源の配給でも差をつけられていた。

 沖縄民政府も出来たのだから住民生活は好転するものと期待をかけていたのであったが、事態はかえって裏腹に出たのだからとうとう住民の間から民政府を非難する声も聞かれるようになった。そのせいもあってか、軍は昭和21(1946)年5月20日「沖縄住民に告ぐ」なる通牒を各関係者に出したのである。

沖縄住民に告ぐ(1946年5月20日)

 日本軍閥の横暴は日米間に戦争を惹起し今日沖縄は破壊され人心安定せず、甞ての如く炊煙民のかまどより上るをみず。甘藷は花咲けど取入るる農夫も無し。結縁は媒酌によらず。祖先の墳墓を顧る遑も無し。

 今や沖縄は米国海軍々政府の指導の下に再成しつつありと雖も其の再建は一に懸りて住民の努力に俟つ。甞て一茎の稲を植えし所今は数茎を植え以て住民の食を得せしむべし。甞て一家族の有せし一家屋、今は数家族をいれ以て雨露を凌がざるべからず、竃髀Z民は粉骨砕身以て沖縄の再成を速やかに成就せんことを期すべし。

 四海は同胞なり。一家の如く人々互に扶助の労を惜しまず、殊に今相共に居住し己が原住の地に帰還の日を一日千秋の想ひにて待ち焦れつつある避難民を村の人々は血肉同胞として遇すべし。避難民もまた仮の住いの現住の村を己が村と看なすべし。村の役人は避難民に対し、ゆめ差別的待遇をなすべからず。けだし避難民も沖縄復興に挺身すればなり。平等の住居、平等の食糧、平等の衣服、平等の医療これぞ村の役人が其の住民保護の任務遂行上の原則なれ。然らば同じ精神もて避難民も亦斯く言はん「我等此の畑を耕し、此の部落を再建せん。我等の播きし作物何人か之を収穫し我等の再建せし地、何人が之に住まわんも可なり。沖縄の人々は皆兄弟なればなり」と。

 住民は現在の艱難を相共に担ひ、他に勝りて苦しむ者無からしめ且つは耕耘を怠る者無からしめよ、一心一体相共にまい進し沖縄再建に砕励し以て民心の安定と国土の繁栄を期せんことを望む。

米国海軍沖縄作戦基地司令官
米国海軍々政府長官
海軍少将 イー・バックマスター

 この通牒を読むと当時の石川に対する当てこすりにも似ている。何しろ石川は戦前の人口1,500人に対し、今や3万2,000人の人がすし詰めにはいっていて、その中から3万人余はいわゆる避難民で残在家屋はすでに先着者によって占められ、たとえ家主でも勝手にはいれなくなっていた。そして屋敷という屋敷はかつての畜舎はもとより、空き地の隅々まで仮小屋が建っていてなかなか住みにくくしたがって時にはトラブルも起るのであった。又土地も避難民にも割当てて耕作せしめたから、避難民の中には、使用権は所有権に優先すると言ったりするので、地主は将来自分の土地が避難民に取られはしないかと危惧してこの面でもトラブルがあった。大体食糧の配給が腹を十分充たす程でないから、住民は常に空腹状態で少しの事にも神経がいら立つのであった。要は配給の改善にあるのだがこの状態はちっとも良くならず、有償になってかえって無償の時より悪くなった。ともかく配給状態を改善しない限り住民の不平はおさまらぬであるが、特に住民生産のまだあがらぬ時に、農家・非農家の区別などすべきでなかった。率直にいって非農家の生活がよかったのである。それでいて農家の苦しみなどつゆ程も知らない非農家の人たちは、いかにも農家がよい生活をしているように思っていたから、農家非農家のいがみあいも絶えなかったのである。

4.復興の歩み(石川市史より抜粋)

諮詢会の行政録
月日 内容
1945年
(昭和20年)
8月15日 田井等・宜野座・コザなど各地区代表百数十人が石川市に集まり、沖縄諮詢会について協議する。
8月20日 各地区代表者百二十四人によって諮詢委員十五氏を選出した。
8月29日 初の諮詢委員会を開き、委員長志喜屋孝信氏外、各委員の分担を決定する。
9月1日 工務部を新設、松岡政保氏就任。
9月20日 知念・前原・胡差・漢那・宜野座・古知屋・大浦崎・瀬高・田井等・辺土名・粟国・伊平屋・平安座・久米島・慶良間などで市議員選挙。
9月25日 同十六地区で市長選挙。
10月31日 北部収容所より知念地区と本部半島への住民の移動開始。
11月7日 屋嘉収容所中の捕虜釈放。
11月20日 沖縄視察のためトル−マン大統領派遣の使節団来島。
12月5日 沖縄本島・久米島郵便逓送について請願。
1946年
(昭和21年)
1月10日 文教学校開校す。
1月11日 警察部が民執行機関に移され、憲兵隊長から仲村兼信に部長の辞令交付、教育部を文教部とし、山城篤男氏を選任す。
1月29日 総司令部覚書により日本政府と北緯30度以南南西諸島との行政分離。
2月1日 警察部石川市内から伊波に移転。
4月4日 戦前の市町村長を再任。
住民の元居住地復帰による行政機構改革に基づき戦前の市町村長をそれぞれの市町村長に任命す。
4月11日 石川市で諮詢委員らによる知事選挙。
4月12日 高等学校・初等学校の職員に辞令交付。
4月15日 戦前の日本円との切替え開始。簡易裁判所および検事局発足。
民政府東恩納のころ。
4月24日 軍政府から志喜屋知事に辞令交付。元県会議員の補欠員軍政府が発表(徳元八一氏外六氏)。
4月25日 知事就任式を行う。
4月26日 諮詢委員会を解消、民政議会(元県会)設置さる。
4月28日 通貨交換完了、交換額六千二百万円日本銀行発行の五円紙幣の通用無効となる。
5月1日 賃金制実施。
5月30日 民政府職員に辞令交付。
6月3日 賃金制により民政府職員に最初の俸給を支給す。
6月5日 賃金制が実施されたため、これまで無償配給であった、米軍補給物資が有償となる。
6月8日 警察部伊波から東恩納の民政府構内に移転す。
7月1日 米海軍から陸軍へ沖縄軍政の移官式を挙行、新任軍政官ヘイドン准将、副長官クレイグ大佐。
7月5日 民政府構内、石川間電話開通。
8月17日 日本から引揚第一船入港。
10月17日 民政府東恩納から知念に移動。

参考文献

『具志川市史』 具志川市 2005年3月
『石川市史』 石川市 1988年3月
『琉球史料 第一集』 琉球政府文教局 1956年
情報提供:うるま市教育委員会 教育部 文化財課

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