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北谷町における戦災の状況(沖縄県)

1.戦災の概況

 昭和16(1941)年12月8日に日本軍はハワイ真珠湾の米軍基地を攻撃した。それが沖縄を戦禍に巻き込んだ太平洋戦争へのきっかけとなった。昭和6(1931)年の満州事変以降、支那事変から太平洋へと戦火が拡大し、15年に及ぶこととなった。

 真珠湾攻撃を機に日本軍はアメリカ軍の機先を制することにより、暫くは攻勢を続けていたが、昭和18(1943)年に大本営が国防の為に死守する絶対国防圏を決定し強化した。強化する地域に沖縄も含まれ日本軍による沖縄諸島の防備及び基地強化が進められ沖縄戦が現実化する可能性を帯びてきた。

 昭和19(1944)年のサイパン玉砕により、絶対国防圏が突破されアメリカ軍の日本への空爆が可能となり、日本全国に展開している軍需基地などが標的となった空襲が行われている。沖縄においては昭和19(1944)年10月10日に那覇を中心に大空襲があり壊滅的な被害を被った。北谷村も中飛行場(屋良:現嘉手納町)が標的となり空襲され、住民に33人の死傷者(死亡31、負傷2)、家屋の焼壊などの被害があったことの記録がある。その後も翌年の1月から3月と相次いで空襲が行われている。

 昭和20(1945)年4月1日、アメリカ軍は北谷から読谷にかけて西海岸より上陸し、翌日には東海岸まで侵攻、沖縄本島を分断し南北に進撃していく。特に南部戦線では住民及び学徒隊を巻き込んだ悲惨な戦禍となる。

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2.市民生活の状況

 昭和19(1944)年3月22日、大本営直轄の第32軍が創設された。

 北谷村においては、8月より日本軍部隊の独立歩兵第15大隊、海上挺進第29戦隊が配備され、集落及び諸施設は兵舎化されるとともに住民は飛行場建設、秘匿壕掘り、戦車壕などの陣地構築作業に駆り出された。これは国家総動員法などの法令を根拠に戦況に見合った勅令なども出され、国民学校5年生以上の生徒、義勇隊(青年男子、女子挺進隊)、国防婦人会が組織され動員された。このように、住民に対する徴用・勤労奉仕という名目で「根こそぎ動員」体制がとられ、農業生産活動に支障をきたす耐乏生活を強いられた。そして、義勇隊や兵役に就いたことのない45歳以上の男子で組織された防衛隊は、訓練が十分でないままの実戦となりほぼ全滅に近い戦禍を被った。また、老幼婦女子及び学童の県外や北部疎開に当たって、県外への学童疎開では3名の犠牲者を出し、北部疎開先では飢餓とマラリアとの戦いに苦しめられた。

 一方、疎開せずにいた住民は米軍上陸と同時に保護され、砂辺収容所及び北谷収容所で「戦後生活」をスタートした者もいれば、戦闘に巻き込まれながら南北へ逃げ回った末、各地の収容所に収容された者など、それぞれに様々な戦後生活をスタートすることになった。

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3.戦災の状況

 昭和19(1944)年10月9日夜、アメリカ艦隊は日本軍に発見されることなく沖縄近海に接近し、翌10日沖縄本島に向けて攻撃隊を出撃し、5回に渡り日本軍の飛行場及び軍事施設、那覇市街地を攻撃。北谷村は第一次攻撃で中飛行場及び軍事施設が攻撃を受けた。その際前述したとおり犠牲者が出ている。これまで、直接攻撃を受けたことがない住民は当初、友軍の演習であるとの認識であったようで、飛行場の攻撃を受けてようやく空襲であると気づき、防空壕などへ避難したという。

 上陸に先立ち、翌年3月23日からは上陸地点となる北谷から読谷にかけての西海岸一帯は艦載機約130機による上空から海岸や塹壕にナパーム弾や機銃掃射が始まり、翌日からは艦砲射撃も加わった。

 上陸に際して米軍は日本軍からの反撃を予想していたがほとんど無く、従軍記者アーニーパイルは「われわれはまるでピクニックのようにチューイングガムを噛みながら上陸した」と本国に報告している。上陸を開始してほどなく北・中飛行場を占領する。その一方、中飛行場周辺で米軍と対峙した日本軍及び女子挺進隊は、激しい米軍の攻撃に合い日本軍のほとんどが戦死した。女子挺進隊20名中1名のみ重症を負いながらも一命をとりとめ米軍へ保護された記録がある。また、青年義勇隊、在郷軍人も同様に多くの犠牲を被った。

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4.復興のあゆみ

 上陸後すぐ米軍は住民を保護し、砂辺収容所と北谷収容所に集められた。そして、両収容所から別の収容所へと転々とし、中部から北部にかけて設けられた収容所へ送られそれぞれの戦後のスタートをきった。終戦後、北谷村全域は基地に接収され住民の帰村は叶わなかった。

 北谷村は、越来村(現沖縄市)嘉間良に仮役所を設け帰村に備え、米軍政府に対し移動復帰要請を幾度と行い、昭和21(1946)年10月22日に一部移動許可が出された。帰村許可地は険悪狭小の地でとても居住に適した場所ではなかった。また、嘉手納の立ち入りは2月と早く、居住許可は11月であった。嘉手納区は北谷村の北端に位置していたが、嘉手納基地の拡大に伴い、行政事務やその他の要件を処理するのに村役場との往来が遮断され迂回せざるを得ない状況が生じ、大幅に時間がかかるようになったことから分村の陳情が嘉手納地区より挙がった。これを受けて北谷村議会で分村の案件がはかられ全会一致で分村が承認された。昭和23(1948)年12月4日に嘉手納村が誕生した。

 居住が許された北谷村の一部の人口の増加、1950年代後半の基地不要地の開放にともない、土地開発が活発化する転換の兆しが現れた。また、山間部や海岸の埋め立て、基地の細切れ返還地を開発し、村域の拡張及び居住地も増加した。

 昭和47(1972)年5月15日祖国復帰が成されたものの米軍用地問題の課題が山積された状況は不動のままで、北谷村は昭和55(1980)年4月1日に北谷町となった。現在も町の約52.3%は基地が占有している状況である。

 北谷町はこれまでに「『ニライの都市』〜自然と人間が調和した、創造性豊かな活力ある民主的な地域社会〜」をまちづくりの基本理念に掲げ、住民の豊かな生活と魅力ある地域社会の実現を目指したまちづくりを推進してきた結果、本町西海岸は若者などが集う賑わいのある「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジ」構想が実現し発展を遂げている。今後も住民生活を豊かにし、さらなる発展に向けたまちづくりを推進していく。

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5.次世代への継承

 昭和21(1946)年10月22日は北谷町民にとって記念すべき大事な日である。終戦時は北谷全域が基地と化し米軍によって占領され、帰村が許されなかった。戦後1年以上を経てようやく一部の地域の帰村を許された。村民は戦争によって荒廃した無残な状況である故郷を目のあたりにし、悲惨で愚かな戦争がもたらした記憶を胸に抱き復興に努めたのである。今日我々が豊かさを享受できるのはこのような過酷な歴史があったからである。これを次世代へ継承すべく、平和の尊さの誓いを込め「北谷町民平和の日」として条例で制定した。この条例に基づき北谷町では多種多様な平和推進事業を開催している。

 その例を挙げると、北谷町平和祈念祭では展示や戦跡巡りを、また、多くの住民及び在郷軍人の戦没者の慰霊祭を毎年「平和の搭」で行っている。そして、広島・長崎の被爆体験を、歴史の教訓として受け止め「北谷町非核宣言」を掲げ、広島・長崎平和学習派遣事業を行うなどの活動を行っている。

参考文献
『北谷町史』第一巻「通史編」 北谷町史編集委員会 2005年

『北谷町史』第二巻資料編1「前近代・近代文献資料」 北谷町史編集委員会 1986年
『北谷町史』第五巻「戦時体験記録」(上)(下) 北谷町史編集委員会 1992年
『北谷町史』第六巻資料編5「北谷の戦後」 北谷町史編集委員会 1988年
『戦時体験記録 北谷町』 北谷町企画課町史編集室 1995年
『北谷町民の戦時体験記録集』(第1集) 北谷町史編集事務局 1985年
『北谷町の自然・歴史・文化』 北谷町教育委員会 1996年
『基地と北谷町』 北谷町総務部町長室 2008年
『下勢頭誌』戦前編 下勢頭編集委員会 2001年
『上勢頭誌』中巻通史編(2) 上勢頭編集委員会 1993年
『平安山ヌ上誌』 平安山ヌ上誌編集委員会 2010年
『北谷町の戦跡・記念碑』 北谷町総務部町長室 2011年
『第五次北谷町総合計画−基本構想・前期基本計画』 北谷町総務部企画財政課 2014年
防衛庁防衛研究所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年
情報提供:北谷町福祉課

 

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