昭和18(1943)年夏、北(読谷)飛行場建設が日本陸軍航空本部によって計画された。その用地は、読谷村の字座喜味・喜名・伊良皆・大木・楚辺・波平の六字にまたがる耕地を国家総動員法のもと、75万坪を強制接収し、戦時飛行場の建設が開始されることとなった。村民には土地の強制接収に加え、整備作業には沖縄中からおおよそ5,000〜6,000人が徴用としてかり出され、食糧供出・荷馬車提供など困難な戦時生活を強いられた。
昭和19(1944)年9月29日午後1時過ぎ、米軍B29の偵察があった。秋晴れのはるか上空を白い飛行機雲で直線の軌跡を描きながら南から北へ悠々と通り抜けていった。もちろん日本軍は高射砲を撃ったが、砲弾は飛行機に届くどころか、はるか下の方で爆発してむなしい黒煙を残すだけだった。
昭和19(1944)年10月10日の大空襲を皮切りに、米軍の空襲が次々と県民を襲った。昭和20(1945)年3月以降、人々は大挙して沖縄本島北部に避難し始めた。読谷村民の避難指定地は国頭村だったが、避難地での生活に不安を感じて村内にとどまる住民も多く、空襲の際は屋敷内の壕や自然洞穴で戦禍を避けていた。
その後、さらに艦砲射撃は激化し、昭和20(1945)年3月27日になると、村民は避難騒ぎで混乱状態になった。避難する村民は国頭村を目指したが、小さな子どもを含め家族全員で、持てるだけの荷物を抱えての苦しい避難生活となった。口に入るものは何でも食べたが、心身ともに衰弱し、マラリアや風土病による病死や餓死者が子どもや老人を中心に続出した。やがて、避難民は国頭の山奥から読谷村をめざして南下を始め、食料を求めて帰村すべく南下する途中で米軍に収容されていった。
沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)に登用された連合軍の兵員の総数は約50万人で上陸地点付近海域には、大艦隊が押し寄せ、空からは多くの米軍機が容赦なく猛攻撃を繰り返した。上陸の時間は昭和20(1945)年4月1日午前8時30分とされた。
午前4時30分、第51機動部隊司令官ターナー海軍中将は「上陸開始」の信号を発した。5時30分、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆遂艦23隻、そして177隻の艦砲がいっせいに砲口を開き、総攻撃直前の掩護射撃が開始された。米軍は沖縄本島中部西海岸一帯に約10万発の艦砲弾を撃ち込み、午前8時30分、読谷・北谷海岸からの上陸を開始した。日本軍の抵抗はなく、「無血上陸」といわれた。午前中に、北(読谷)飛行場、中(嘉手納)飛行場を占領した米軍は、2日午後には東海岸に達し、沖縄本島を南北に分断したのだった。
〈1945年4月1日、読谷海岸のリーフ内を進軍する米海兵隊〉(読谷村所蔵写真)
爆撃をうけた上陸地読谷村及び比謝川河口は、部落の家々をはじめ、嘉手納製糖工場へ通じるトロッコ用回転橋が破壊された。上陸地周辺に撃ち込まれた砲弾の数は約4万5,000発にのぼり、ロケット弾、臼砲弾約5万5,000発も同時に撃ち込まれ、激しい集中砲撃となった。比謝橋では、南部への交通遮断のため比謝橋破壊の任務をおった中村中隊と米軍との間で、読谷村で唯一戦闘らしい戦闘が行われた。
米軍の沖縄本島上陸の地となった読谷村では、村内各地のガマ(自然の鍾乳洞穴)や屋敷内の壕に多くの村民が恐怖を抱きながら潜んでいた。字波平にあるシムクガマには、約1,000人が避難しており、そこには2人のハワイ移民からの帰省者もいた。
4月1日の午後、米兵がガマへやってきて投降を呼びかけた時、2人はガマの中に日本兵がいないことを米兵に説明し、住民の保護を求めた。また、2人はガマにいる住民を説得し、米軍上陸直後の戦車の砲弾で死んだ3人を除き、全ての人々が無事に収容されていった。
その翌日の4月2日、同じ波平にあるチビチリガマでは、避難していた住民約140人のうち83人が「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。83人のうち約6割が18歳以下の子どもたちであり、「集団自決」は、皇民化教育、軍国主義教育によって強制された死であった。
〈沖縄戦終結50周年にあたり、再び国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意して建立されたチビチリガマの碑〉(読谷村所蔵写真)
米軍の本島上陸以後、本村全域は米軍の占領地と化し、戦後もしばらくの間村民は自らの土地に帰ることは許されなかった。村民の収容地区からの「帰村」は昭和21(1946)年11月から始まった。
復興へと向かいつつあった1950年代、突然、楚辺・渡具知の住民は再び「強制立ち退き」を命じられた。その後米軍は「土地収用令」(昭和28(1953)年)を公布して、沖縄の住民に対して銃剣とブルドーザーを動員して土地を奪い去ったのだ。朝鮮戦争、ベトナム戦争の勃発に伴い、アメリカが「太平洋の要石」(キーストン・オブ・ザ・パシフィック)としての沖縄要塞基地が拡大していき、住民は翻弄されるように住む土地を追われ続けたのだった。
異民族支配下に放置された沖縄は、米軍政府の占領政策のもと長期にわたって耐え難い抑圧と犠牲を強いられてきた。また、軍事基地あるが故の被害を多大に受け、そこには人権尊重という精神もなく、時には生きる権利さえも踏みにじられてきた。
昭和47(1972)年5月15日、沖縄は「祖国」日本へと復帰した。それは、平和憲法下において「核も基地もない平和な島」に生まれかわる日のはずだった。しかし、県民の悲痛な叫びは裏切られ、復帰後も米軍基地は居座り続け、以前とほとんど変わりなく異常な「基地の島・沖縄」が存続した。
そうした困難な状況の中にありながらも、本村ではこれまで多くの村民や旧軍飛行場地主関係者による所有権回復運動、日米合同委員会での共同使用合意に基づく役場庁舎等の建設、平成8(1996)年のSACOによる返還合意、返還跡地への先進農業支援センターの設置等、飛行場返還に向けて時間をかけながら粘り強く取り組みを推し進めた。その結果、読谷補助飛行場は、平成18(2006)年7月31日一部先行返還、同日に等価交換調印式が行われ、同年12月31日には全面返還が行われて、翌年1月5日に等価交換調印式が行われた。この時楚辺通信所(通称「象のオリ」)の返還も実現した。
〈演習を終えヘリに乗り込む完全武装の米兵。再三の事故や村の訴えを無視し、米軍は読谷補助飛行場にてパラシュート降下訓練を実施した。〉(読谷村所蔵写真)
〈トレーラ落下、女子死亡(1965.6)〉(読谷村所蔵写真)
本村は、平成3(1991)年「読谷村平和行政の基本に関する条例」を制定した。
この条例は、第二次世界大戦、とくに悲惨な沖縄戦の教訓とそれに続く異民族支配の体験を踏まえ、恒久の平和を希求する村民の意思に基づき、読谷村の平和行政に係る基本原則並びに平和に関する事業を推進し、もって村民の平和で豊かな生活の維持向上に資することを目的としている。
第3条 読谷村は、平和行政を推進するため次の事業を実施するものとする。
以上のことを踏まえ、読谷村では平和に関する様々な事業を行っている。
読谷飛行場は60年余にわたり軍事基地として使用され、村の中央に位置していることから本村のむらづくりの大きな障壁となっていた。しかし、多くの村民や旧地主関係者の協力を得ながら解決を図り、30年余の歳月をかけて返還が実現した。こうした歴史を後世に引き継ぎ、村の新しい中心地づくりと地域振興を将来に託すという思いを込めて返還の碑が建立された。
合わせて、平和の森球場敷地内に建立されていた不戦宣言の碑も、返還の碑西側に移設し、歴史や平和学習の場として親しみやすく地域に根ざした広場としての役割を担っている。
不戦の誓い
人類の未来は常に明るいものでなければならない
それは全ての人類の共存、共生、協調の時代
核の脅威からの開放につながり
大自然と調和する人間の営みは、明日への活力を生む
沖縄の心、それは武器なき社会であり
武力によらず、人間相互の信頼と
文化文物の交易によって生きてきた
我々は、国家のために次また次へと
沖縄を犠牲にすることを拒む
決して攻撃せず、決して侵略せず
子らを再び戦場へ送らない
人類の未来は常に生命が大事にされなければならない
戦場で、惨禍に見舞われた人々に明日はなかった
降り注ぐ砲弾の雨のなか逃げ惑う人々の恐怖
生きる事への希望の芽は踏みつぶされ
その狂暴さは深く心に刻まれた
そのことを忘れない
巡りきた沖縄戦終結五〇周年を機会に
戦争による三千七百余の死者への弔いと
沖縄戦から学んだ教訓、それは非戦の誓いであり
ここに、あらためて恒久の平和を願い不戦を誓う
(1995年3月30日沖縄県読谷村、沖縄県読谷村議会)
〈読谷飛行場返還の碑完成写真〉(読谷村企画政策課所蔵写真)
〈不戦宣言の碑完成写真〉(読谷村企画政策課所蔵写真)
参考文献